平成7年12月12日(火)~平成8年4月14日(日)
昭和5年に藤崎で出土した壺形土器(高さ19.6cm) |
かなり古いはなしになりますが、百道(ももち)の海水浴場や松林をご記憶でしょうか。近年の埋立てや開発で往時のおもかげを留めているところは少なくなりましたが、博多湾沿岸には2,000年以上前から砂丘が形成されてきました。今回の展示では砂丘上に展開する福岡市早良区の西新町・藤崎遺跡を紹介します。
この2つの遺跡が一般に知られるようになったのは、市営地下鉄や藤崎バスターミナルの発掘調査以後です。ところが弥生時代から古墳時代を研究するうえで基準となった古くからの発見や報告も少なくありません。
出土遺物は、漁撈(ぎょろう)の様子をつたえる飯蛸壺(いいだこつぼ)や石のおもりから、山陰や近畿地方さらに朝鮮半島南部とのつながりを示す文物まで多岐にわたります。発掘された資料をながめながら、倭人伝の時代に想いを馳せてみてはいかがでしょう。
会場では「百余国の時代」「倭人伝の時代」「倭の水人」を3つの柱に資料を展示します。
首のない人骨(西新町遺跡10次調査) |
弥生中期の居住跡(西新町遺跡8次調査) |
百余国(ひゃくよこく)の時代
「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国となる。歳時(さいじ)をもって来りて献見(けんげん)すという」 『前漢書地理誌』
右の文は、西暦紀元前後(弥生時代中期)の倭人についての記事です。「百余国」とは、いくつもの集団に分かれた状況をさします。中国に使いにいった倭人もあったようです。当時の中国が、倭の領域をどの程度把握していたかは定かではありませんが、さかんに交易のあった北部九州の情報は伝わっていたはずです。
西新町・藤崎遺跡では甕棺(かめかん)をもちいた集団墓地が300基近く見つかっています。このなかには、玄海灘を渡った人物もいることでしょう。
西新町遺跡の甕棺に埋葬された熟年男性は、右腕に、貝のブレスレットをはめていました。その材料となったゴホウラ貝の生息域から南海とのつながりを知ることができます。
別の甕棺から出土した銅剣の先端部は、「戦闘」の結果折損して体内に残ったのではないかといわれてきました。最近の調査では、頭骸骨(とうがいこつ)のない人骨あるいは頭骸骨だけを入れた甕棺墓が発掘されており、「儀礼(ぎれい)」・「戦闘」の両面で検討されています。
甕棺墓が盛行した弥生中期の集落の存在はこれまで不明でしたが、昨年、はじめて円形プランの竪穴住居跡が見つかりました。集落の分布状況の確認が、これからの課題です。
弥生後期は中頃までの1世紀以上のあいだの様子が明らかでなく、集落・墓域とも断絶がみられます。
「西新式」の壺形土器(高さ40cm) |
三角縁ニ神ニ車馬鏡(径22.3cm) |
倭人伝の時代
弥生終末期から古墳時代になると西新町遺跡を中心に大規模な集落がつくられます。
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、3世紀中頃の倭の国々の様子が記されています。西新町・藤崎遺跡は、地理的に「奴国(なこく)」の北側に位置します。遺跡名に由来する「西新式土器」は、弥生終末期から古墳時代にかけての北部九州の伝統的な器種をさします。このなかには中国からの使者のもてなしに使われた土器も含まれているかも知れません。
4世紀頃になると、集落および墓の出土遺物には、在来の土器以外に、山陰・近畿などから運ばれたさまざまな器種が加わるようになります。
その頃の藤崎遺跡では、周囲に溝を回らした墓地、方形周溝墓が築かれ、主体部に銅鏡を副葬したものもあります。
そのひとつ三角縁二神二車馬鏡(さんかくえんにしんにしゃばきょう)は、女王「卑弥呼」が魏(ぎ)から贈られた鏡の有力な候補です。同じ鋳型でつくられた鏡は、岡山と山梨の前期古墳で出土しています。
このほか朝鮮半島との交易を示す鉄器や土器も出土しています。
飯蛸壺(西新町遺跡2次調査) |
倭の水人(すいじん)
『貌志倭人伝』には漁撈に携わる人々が「倭の水人」として登場します。末盧国(佐賀県唐津市付近)の記述には、「好んで魚やアワビを捕り、水深浅にかかわらず、潜って捕る」とあります。志摩町(福岡県糸島郡)の御床松原(みとこまつばら)遺跡で出土した鉄製のアワビ起こしは、この記述を物語る資料です。西新町・藤崎遺跡では、飯蛸壺のほかに舟や漁網のおもりが発掘されており、ここでも水人たちは活躍していたのです。
砂丘遺跡の終焉(しゅうえん)
4世紀末をさかいに、遺跡の規模は墓・集落ともに急速に縮小します。船の大型化にともなって港の機能がほかに移ったとも想像できます。その後、奈良・平安時代にかけての須恵器や土製のおもりも出土していますが、集落の実態はまだ解明されていません。