平成8年7月30日(火)~10月27日(日)
▲「漢委奴国王」の金印、つまみは、蛇をかたどる。(高さ2.236cm) |
志賀島(しかのしま)で発見された金印にも登場する「奴国(なこく)」は、今日の福岡市の中心部から春日市にかけての地域と推定されます。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には「(伊都国(いとこく)より)東南奴国に至る百里、官をし馬觚(まこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。2万余戸あり」と記され、邪馬台国(やまたいこく)の7万、投馬国(とうまこく)の5万に次ぐ規模の人口だったとあります。
博多区の那珂(なか)・比恵(ひえ)遺跡が、弥生時代の集落跡として注目されて、すでに半世紀以上を経ました。さらに、この10年余りの発掘調査によって遺跡の全貌が明らかになろうとしています。掘り出された密集する柱穴群は、この地が長い期間「奴国」の中心集落として機能したことを物語っています。またこの一帯は、北部九州でも有数の、青銅器の鋳型が多く出土する地域であり、テクノポリスとしての一面も見られます。
展示では、特徴的な出土遺物によって、「奴国」の変遷をたどり、その実像に迫ります。
▲「V」字形に掘られた環濠の断面(那珂遺跡37次) |
激動する弥生文化
いまから2,400年ほど前、北部九州に伝播した稲作は、耕地の開墾と稲の栽培に必要な水の確保を強いることになります。大規模な開発にともない、「ムラ」をとりまく風景は縄文時代とくらべて大きく様変わりしました。
石器に石包丁のような穂摘み具が加わり、土器や木器にも新たな器種が生み出されました。集落の周囲には濠がめぐらされ、そこに暮らす人々の意識にも変革の波が押しよせたのです。
紀元前108年頃、漢の武(ぶてい)は、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡(らくろうぐん)など4郡を朝鮮半島に設置します。その頃、北部九州に金属器が伝来し、やがて那珂・比恵遺跡でも青銅器の製作や鉄器の加工が行われるようになりました。
▲甕棺に副葬された細形銅剣(全長30.35cm) |
▲上の銅剣に巻かれていた絹布(比恵遺跡6次) |
百余国の時代
「楽浪海中倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来たりて献見すという」(『漢書地理誌』)
右の文は、紀元前1世紀、当時の倭がいくつもの「クニ」に分かれ、中国に使者をおくつた様子が記されています。この時期、西日本の各地に大型の掘立柱(ほったてばしら)建物が建てられるようになります。掘立柱とは、地面に穴を掘って根元を埋め固めて柱を立てることから、こう呼ばれます。貧弱な構造に聞こえるかも知れませんが、奈良県で見つかった土器には、切妻の両端に渦巻状の棟先飾(むなさきかざり)がついた壮観な建物が描かれています。国々は、統合をかさね飛躍的に成長を遂げていきます。
奴国王と金印
「建武中元(けんむちゅうげん)2年(57)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり、光武(こうぶ)賜うに印綬を以てす」(『後漢書』倭伝)
文献に「奴国」の名がはじめて登場します。奴国王が、使者を派遣した目的は何か。権力の拡大をもくろんだのでしょうか。しかし、この時期をさかいに甕棺墓(かめかんぼ)や赤く丹塗られた土器は、著しく減少します。青銅製の剣・矛・戈(か)が実用性を失い、武器形祭器へ変化するのもこの頃です。
倭国乱る
「桓(かん)・霊(れい)の問、倭国おおいに乱れ、こもごも相攻伐し、歴年主なし」(『後漢書』倭伝)
この記事は2世紀後半の戦乱、いわゆる“倭国大乱” として知られています。
当時の武器について『魏志倭人伝』には「兵には矛・楯・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭(ちくせん)(竹の矢)は、鉄の鏃(ぞく)か骨の鏃である」と述べています。那珂・比恵遺跡では木製の弓、鉄鏃のほか銅鏃や木製の鏃が出土しています。
甦(よみがえ)る古代の色
比恵遺跡では、顔料として貴重品であった辰砂(しんしゃ)(硫化水銀)がまとまって出土しました。小さなかけらを乳棒ですりつぶすと、赤く鮮やかで、まさに時空を超えた発色を目にすることができます。景初(けいしょ)3年(239)、献上の返礼として卑弥呼に下賜された「真珠・鉛丹各々五十斤」の真珠を上質の辰砂とする説があります。国内にも辰砂を産出する水銀鉱床群がありますが、今回の出土品は、弥生時代中期から後期にかけて中国から運ばれた交易品のようです。
▲那珂八幡古墳出土の三角縁五神四獣鏡(径21.8cm) |
前方後円墳の出現
弥生時代の北部九州では、銅鏡や装身具が宝器と考えられていました。しかし、1世紀の後半以後、奴国域においてたくさんの宝器が副装された墓は発見されていません。3世紀の後半になると、魏から卑弥呼に与えられた銅鏡は、各地の首長に配布された後、各々の墓に副葬されました。那珂八幡(なかはちまん)古墳など前方後円墳の出現は、「初期ヤマト政権」を中核とする新たな時代の到来を意味します。
3世紀以降「奴国」は文献から姿を消しますが、この地域を日本書紀では「儺(な)の縣(あがた)」、律令時代から明治まで「那珂郡」とよんでいました。「那の津」は、「な」の地方の港を意味し、今日、博多湾沿いの通りにその名をとどめています。