平成9年2月18日(火)~4月13日(日)
鯛釣り恵比須 |
ドンザ(仕事着) |
農村のドンザ(仕事着) |
漁村に行くことがあったら、土地の老人にドンザを知っているかと聞いてみて下さい。すぐに若かりし頃の思い出を語ってくれることでしょう。
ドンザとは、昭和30年代から40年代、日本が高度経済成長を遂げようとしていたちょうどその頃までみられた衣服の呼び名です。ドンザという言葉が本来どういう意味を持っているのかはよくわかっていませんが、こう呼ばれる衣服は、日本じゅうの至るところでみられました。
北部九州で言うドンザは、たいてい漁師の着物、それも木綿製で巻袖(まきそで)の刺(さ)し子(こ)衣装を指すことが多かったようです。しかし、必ずしも海の仕事着だけをそう呼んだのではないことは、海から離れた全国の農村・山村にドンザという言葉があることでわかります。また、ドンザを綿入れ着物とする地域も全国には少なくありません。その形態も地域ごとに少しずつの違いがあるのです。
ただ、おおまかに見てドンザという衣服が海辺の漁をする村々に多く、仕事着として着用され、じようぶな刺し子の着物とされる場合が多かったことは、福岡市やその周辺の例と同じです。
現在、福岡市内で確認されているドンザは、福岡市博物館等が所蔵するわずか15着にすぎません。女性がていねいに刺し子を施したドンザは、かつて漁村の最もふつうの着物でした。それがどうしてこんなに残っていないかというと、多くの場合、持ち主の男性とともに葬られる運命にあったからなのです。
かつて、哲学者の九鬼周造(くきしゅうぞう)は『いきの構造』のなかで、異性を意識する気持ちが「いき」の前提にあると看破しました。美しく刺されたドンザは男たちの自慢であり、漁業という危険と背中合わせのなりわいの中で漁師の粋(いき)を発現させるものでした。
ドンザの着こなし
玄界灘の漁師たちは、上衣としてジュバンを着ることもありましたが、たいてい六尺褌(ろくしゃくふんどし)か越中褌(えっちゅうふんどし)姿で漁をしていました。ドンザは寒い時期に着ることが多かったようですが、夏に着ることもありました。分厚く重ね刺しされた布が日差しを遮(さえぎ)るため、それほど暑くはなかったといいます。ドンザを着るときにはあまり帯はしませんが、藁(わら)や棕櫚(しゅろ)でできた縄の帯をすることもありました。
ドンザには丈(たけ)が腰までの短いものと、膝(ひざ)下まである長いものがありました。短いものは、網漁師たちが操業中に着ることもあったようですが、ドンザは体にまとわりつくため、船上での作業にはヒョウヒョウという綿入れの短着が役立ったといいます。長いドンザの場合は、ほとんどが漁場への行き帰りや漁場と漁場の間の移動に際して着るものでした。船中に泊まる時には夜具(やぐ)の役割も果たしました。
しかし、ドンザは必ずしも仕事着に限定されるものではありませんでした。漁の合間に普段着として着ることも多かったということですし、村の寄り合いなどに着ていったり、乗り初(ぞ)めや漁祭りといった漁師の祭りのときに着るなど、およそ晴れ着といっていいような着方もされていました。
きれいに刺されたドンザを着ていると恰好よく感じられたという話も聞かれ、より緻密な刺繍(ししゅう)のものには2枚合わせ程度の、仕事着としてはおよそ不釣り合いな薄いものが多くなります。