平成9年4月1日(火)~9月28日(日)
2 銅製経筒(脊振山出土) |
10 陶製経筒(安楽寺銘) |
7 相輪形鈕輪積式経筒 |
7 付属の竹製経巻入れ |
9 陶製経筒(四王寺山出土) |
13 滑石製経筒(西油山出土) |
平安時代の後半、仏の教えがすたれ世のなかが乱れてくるという末法思想(まっぽうしそう)が流行しました。僧侶や貴族たちは再び仏がよみがえる来世、つまり56億7000万年後の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の再生に期待し、そのときに備えて経典を書写して経筒に納め、経塚に埋めることにしました。その事例のひとつを、元禄4年(1691)に大和国(奈良)の大峰山山頂から出土した金銅藤原道長経筒(こんどうふじわらみちながきょうづつ)(国宝・金峯神社(きんぶじんじゃ)蔵)にみることができます。その筒身に書かれた銘文によりますと、寛弘4年(1007)に藤原道長が自ら書写した経巻を銅篋(どうきょう)に入れ、金峯山に埋納しましたが、それは極楽往生と滅罪生善を念じ、来世にて弥勒如来に出会い成仏(じょうぶつ)せんことを願ったものでした。このことは道長の日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』にもみられ、貴族の埋経の様子を伺い知ることができます。
この事象は京都ばかりでなく、ここ北部九州にある経塚からも経筒をはじめ多くの遺物が出土していることから、九州地方でもさかんに行われたことがわかります。九州最古の紀年銘の例は、治暦2年(1066)の佐賀県小城郡岩倉山経塚出土の経筒です。前述の金峯山経塚よりおくれることおよそ半世紀です。そして出土例のほとんどが12世紀前半に集中しています。このころが九州における末法思想の最高潮だったのでしょう。それは英彦山(ひこさん)、求菩提山(くぼてさん)、宝満山、四王寺山、脊振山そして油山といった霊山等の山岳信仰と深い関係があるようです。
今回の展示には青銅製経筒、陶磁製経筒、滑石製経筒そして瓦経と鏡像を出品しました。
一般に経筒は経巻の保護を目的としたものですが、埋納者の好みにもよるのでしょうか様々な造形美をみせています。しかし経巻は釈迦そのものであるという考えから、舎利塔の意味で塔をかたどったものが多いようです。さらに蓋には銅製で相輪の形をした鈕(つまみ)がついたものもあります。その相輪形鈕の蓋をもった輪積式経筒は九州地方独特のものです。また相輪形鈕に倣(なら)ったユニークな形をした蓋をもつ陶磁製経筒もほかではあまりみられない例です。構造をみてみますと銅板をまるめて筒身をつくりますが、その径は底板として銅鏡を用いる場合はその大きさによります。また底に銅製皿をひっくりかえして用いた場合は、皿の底径にあわせています。
表面に褐釉(かつゆう)あるいは黄褐釉をかけた陶製あるいは青磁製の経筒は、中国江南地方の越州釜(えっしゅうよう)のものが多く、その独特の器形からして日本からの注文によって作られたとおもわれます。その出土例が北部九州地方に集中しているのは、当時の日宋貿易の中心が博多の港であったためと考えられます。
滑石製(かっせきせい)経筒はなかを刳(く)りぬきやすく、加工しやすいやわらかい石が北部九州に多く産出することにより、北部九州とくに福岡・佐賀両地域にその例が集中してみられます。用途は経筒としてばかりでなく、青銅製経筒を入れて保護する外容器としてもつくられています。紀年のある早い例としては、中に納められていた銅製経筒銘から嘉保3年(1096)の佐賀県杵島郡出土の外筒があります。形は丸い筒形のものや、方形あるいは多角形のもあり、蓋も同様に円形と方形の2種に大別されます。
瓦経(かわらぎょう)は粘土板がやわらかいうちに錐(きり)のようなもので経文を刻(きざ)み、乾かして焼きしめたものです。経筒中の経巻は紙製が多いのですが、このように粘土や滑石、銅板といった保全性がよい材質で作られたものもあります。
鏡像(きょうぞう)は本来、神社の御神体(ごしんたい)であった鏡に、神の本地は仏であるという本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)から鏡面に仏像を線刻したもので、御正体(みしょうたい)ともよばれています。その御正体は霊山の経塚を守護するために埋納されました。
経塚の副納品としては、銅鏡、合子(ごうす)、刀子(とうす)、銭貨、仏像、仏具などがあります。今回の展示のなかで珍品と思われるのに竹製経巻入れがあります。竹製経筒は昭和56年(1981)に京都府大導寺経塚で出土していますが、この竹製経巻入れは中に経巻をいれて、さらに銅製経筒に納めたものです。といいますのも、経巻入れにとりつけてある紙製幡(ばん)の保存状態が良いからです。