平成9年9月30日(火)~平成10年3月29日(日)
4 金龍寺 木造十六羅漢像 |
4 木造十六羅漢像(もくぞうじゅうろくらかんぞう) 1躯
福岡市中央区 金龍寺(きんりゅうじ)/像高 35.7センチ
十六羅漢は釈迦の入滅(にゅうめつ)後、各地で仏法を護り伝えた16人の仏弟子です。特に禅宗寺院で尊ばれ、これまで多くの画像や彫刻が作られてきました。本像も曹洞宗の金龍寺に伝わった十六羅漢像のうちの1躯ですが、像底に大仏工源兵衛という墨書銘があり、佐田源兵衛万通が作ったことがわかります。万通には(3)の宇美八幡宮随神像のような大作もありますが、本像には随神像でみた力強さはなく、羅漢のどこかユーモラスな表情など、肩の力を抜いて彫った自由な感覚があらわれています。なお、金龍寺は福岡藩に仕えた学者、貝原益軒(かいばらえきけん)の菩提寺としても有名です。
5 長垂寺 木造吉祥天立像 |
5 木造吉祥天立像(もくぞうきちじょうてんりゅうぞう) 1躯
福岡市西区 長垂寺(ちょうすいじ)/像高 31.0センチ
台座底板の墨書銘から、佐田文蔵慶徳(ぶんぞうけいとく)(朝桜の息子)が像本体を制作し、明和6年(1769)に慶徳の息子である佐田寿四郎慶始(けいし)が台座と光背を作ったことがわかります。明和6年は慶徳の没年にあたることから、おそらく本像は佐田慶徳の最晩年の作品で、彼が像の完成を俟(ま)たずに没したため息子の慶始が仕事を引き継いだと考えられます。現在のところ慶徳の作品は僅(わず)かしか知られていませんが、本像を見るかぎり人形のような大変細やかな作風がうかがわれます。なお、慶徳以降の佐田仏師の棟梁(とうりょう)は代々、文蔵という名を襲名しています。
6 長野大日堂 木造阿弥陀如来坐像 |
6 木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう) 1躯
前原市 長野大日堂(ながのだいにちどう)/像高 81.7センチ
像内の墨書銘から明和8年(1771)に佐田文蔵慶始が制作した像で、もと恰土郡(いとぐん)長野村(現 前原市長野)の宇美八幡宮にあったことがわかります。佐田仏師の作品としては比較的大きな像ですが、構造は細かい材を寄せる複雑な寄木造(よせぎづくり)りで出来ています。おそらく像の大きさに見合った十分な用材がなかったためと思われますが、それをうまく技術で補っているところが評価できます。また、体躯のバランスもよく、衣の褶(しわ)などもしっかりと彫られています。佐田慶始の生没年は不明ですが現在のところ、明和3年(1766)から文化14年(1817)まで活動したことが知られています。その作例は多く、これからもなお彼の作品が発見される可能性があります。
7 (1)木造須佐之男命坐像(もくぞうすさのおのみことざぞう) 1躯
(2)木造大国主命坐像(もくぞうおおくにぬしのみことざぞう) 1躯
宗像市 示現神社(じげんじんじゃ)/像高(1)30.3センチ (2)27.1センチ
画像とも示現神社に祀られる御神体です。それぞれ台座底面に墨書銘があり、文化8年(1811)に佐田文蔵慶始と佐田武平慶般(けいはん)(慶始の息子)によって制作されたことがわかります。像自体からは慶始・慶般父子の分業の様子はわかりませんが、30センチ程度の小さな像を繊細な鑿捌(のみさば)きで隅々まで丹念に彫っており、神像にふさわしい威厳と風格をあらわすことに成功しています。また、保存がよく当初の彩色が鮮やかに残っている点でも貴重です。佐田武平慶般は慶始の息子ですが、佐田仏師の棟梁を示す「文蔵」を名乗らず、後に大塚と姓を変え、工房も従来の福岡東名島町(現 中央区天神3丁目付近)から独立して博多鰮町(いわしまち)(現 博多区対馬小路)に構えたことが知られています。
7-(1)示現神社 木造須佐之男命坐像 |
7-(2)示現神社 木造大国主命坐像 |
8 専修寺 木造善導大師立像 |
8 木造善導大師立像(もくぞうぜんどうだいしりゅうぞう) 1躯
宗像市 専修寺(せんしゅうじ)/像高 32.0センチ
台座底に「万延元年/十月吉日/泰彫刻/大仏師/佐田湛澄」と墨書銘があり、江戸時代末期の万延元年(1860)に佐田湛澄(たんちょう)が作ったことがわかります。現在、湛澄については本像と、次に述べる弘法大師像の修理銘が知られるだけで、佐田仏師の系譜に占める位置は明確ではありません。ただその作風をみると、やはり慶徳以降に明確になってきた人形のような繊細な表現が共通していると言えます。善導(613-681)は浄土教を大成した中国・唐代の僧で、日本の浄土教にも大きな影響を与えた人物です。