平成10年1月27日(火)~4月26日(日)
小葎遺跡で出土した旅する土器(高さ39cm) |
伊都国の立地と遺跡の分布 |
小葎遺跡の発掘風景(1977年) |
かつて「ヒト」や「モノ」の移動は、日本列島をとりまく海流に支配されていました。空の旅が一般的となる近年まで「港」は「異文化」との出会いの場であり、「異郷」への出発点でした。
古代中国の史書に登場する「伊都国(いとこく)」は、福岡市西部から前原市、志摩町、二丈町にかけての一帯にあたります。糸島とよばれるこの地域は、海に突きでた半島部と、背後に高い山がある内陸の平野部からなります。かつて東西の湾入部から内海が入り込み、半島と平野部のあいだの高まりが陸橋となって、両者をつないでいました。
3世紀、西晋(せいしん)の陳寿(ちんじゅ)の編纂(へんさん)といわれる『魏志倭人伝』は、弥生後期の「伊都国」を「郡使の往来常にとどまるところ」と記しています。さまざまな人や文物が行きかう、当時もっとも刺激的な地域だったようです。
半島のまわりには、いくつかの湾入部があります。副題の『ふたつの港』とは北端の岬をはさんで東西に分布する海沿いの遺跡のことです。港を往き来した考古遺物をながめながら倭人伝の時代に想いをめぐらせてはいかがでしょう。
旅する土器
博多湾を見下ろす高台にある小葎(こもぐら)遺跡では100年以上のあいだ土器や漁網の錘(おもり)が住居跡に投げ込まれていました。そのなかには北部九州特有の壷も数点含まれていますが、同じ類の土器は、島根県や新潟県でも見つかっています。壷に何が入っていたかわかりませんが、航海の安全や豊漁を祈願してお祭りをしたのかもしれません。また逆に山陰地方や瀬戸内方面から持ち込まれた土器もぽつぽつとみられます。このように遠く離れた空間を移動した器を「旅する土器」と呼ぶことにしました。
各地で出土するありふれた土器でも、遠く離れた場所で見つかると、そこに海を渡った人々の姿を思い浮かべることができます。
御床松原遺跡 貨泉(かせん) (径2.2cm) |
新町遺跡 半両銭(はんりょうせん) (径2.4cm) |
伊都往来国
「楽浪(らくろう)海中倭人あり、分かれて百余国となる。歳時(さいじ)をもって来りて献見(けんげん)すという」『漢書地理誌』〔後漢の班固(はんこ)(編)〕
上の文は、紀元前1世紀頃、当時の倭がいくつもの集団に分かれ、中国に使いをおくつた様子が記されています。おそらく使者は献上品をたずさえ、戻りぎわに珍しい品々を持ち帰ったのではないでしょうか。
紀元前108年、漢の武帝(ぶてい)は、衛氏(えいし)朝鮮を滅ぼし、楽浪郡(らくろうぐん)など4郡を朝鮮半島に設置します。その頃から、北部九州にさかんに大陸系の品々が運ばれてくるようになります。古代中国の貨幣や楽浪系の土器は、交流の一端をしめす資料です。