平成10年1月27日(火)~4月26日(日)
倭の水人
「いま倭の水人、好んで沈没して魚蛤(ぎょこう)を捕らえ、文身(ぶんしん)し、またもって大魚(たいぎょ)、水禽(すいきん)を厭(はら)う」『貌志倭人伝』のこの文は、魏の使いが、玄界灘の海人の印象を描写したものです。「沈没」とは、すもぐりのことです。また「文身」というのは、イレズミのことで、「大魚、水禽」つまりサメなどの危害をはらうという意味が込められていたようです。
航海には海をおそれず、風向や潮のながれをよみとる能力が必要でした。ですから古代の交易は「水人」の存在を抜きに語ることはできないのです。伊都国の海沿いの遺跡では、飯蛸壷(いいだこつぼ)や舟や漁網の錘のほか、鉄製のアワビ起こしや釣針などが見つかっています。おそらく海産物は交易品の主力だったのでしょう。
烏装の司祭者(1/3) |
伊都国の造形
かつて紙の無い時代、土器や板をカンバスに描かれた絵や記号は古代人の精神を象徴するものでした。九州は近畿地方にくらべて絵画や記号が少ない地域のようです。ところが近年、前原市で発見された烏の羽飾りをつけた武人の線刻画から、人面付き銅戈にある記号を解釈するヒントを得ることができました。この武器形祭器には目・鼻を表現した人面の反対側に「向かいあう半円文」)(が鋳出されています。武人の目の回りにも同様の半円文が刻まれていることがわかります。これらを本州や四国で発見された人面と比較検討すると、この記号)(は、イレズミを象徴した魔除けの意匠と考えることができます。
このほか伊都国で掘り出された絵画と記号を紹介します。弥生人が出題する謎解きに御参加ください。
銅戈に表現された魔除けの意匠(実大) |
その後の伊都国
弥生時代につづく前方後円墳の出現は、「初期ヤマト政権」を主体とする新たな時代の幕開けを意味します。
古墳時代以後「伊都国」の名は文献から姿を消しますが、「恰土(いと)」、「志麻(しま)」の郡名は律令時代から近代まで受け継がれました。そして明治29年、両郡が合併して生まれたのが「糸島郡」です。旧糸島郡は、昭和19年以来一部が福岡市に編入され、平成4年には前原に市政が施行されるなど、とりまく環境は急速に変化しています。
(常松幹雄)