平成10年2月24日(火)~4月19日(日)
福岡・材木町周辺(筑前名所図会) |
近世福岡・博多の職人展について
江戸時代の中頃、元禄(げんろく)時代に、福岡藩の学者貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂(へんさん)した『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』の中には、当時の福岡藩内の産物の解説「土産考(どさんこう)」があります。そこには城下町(じょうかまち)福岡、博多に住んだ職人達の作った、数多くの品物が書き上げられ、城下町の建設、発展とともに始った、これらの職人の系譜(けいふ)も知ることができます。展示では、江戸時代260余年に栄えた、この地の数多くの職人のうち、とくにこの時代の初めから、福岡藩主や藩の御用と関りの深い業種の人々について、本館が収蔵している資料を中心に、その活動と業績を紹介します。
(上)刀工(下)鑓師 |
福岡藩と福岡・博多の職人
慶長(けいちょう)5(1600)年、関ヶ原の合戦の功で筑前52万石の大名となった黒田長政(くろだながまさ)は、翌年から福岡城と城下町の建設を始めました。当時、日本各地の新しい城下町では、大名とそこに集められた家臣団のため、多くの職人が各地から呼びよせられたり、地元の職人が保護されたりしました。
黒田氏に招かれたり、移って来た職人はやはり福岡に多く、刀、甲胃、弓、鑓(やり)、鉄砲などの武器、武具関係の職人、大工や瓦、石垣造りなど、城郭(じょうかく)や武家屋敷の建設、建築関係の職人、桶(おけ)や食器など日常生活の用具を造る職人など、多種多数にのぼります。また出身地は京都周辺など上方、黒田氏の出身地播州(ばんしゅう)姫路(現兵庫県)周辺、また九州での最初の領地豊前(ぶぜん)中津(現大分県)などがあります。また当然ながら、中世以来の商工業都市博多周辺にもともと住んでいた職人もいました。
さて、これらの職人は同じ業種の集団ごとに居住が許され、町名も業種にちなんだものが付けられました。福岡では大工町や新大工町、紺屋(こんや)町が有名です。また重要な職人には広い屋敷と作業場が与えられ、藩の扶持(ふち)も得ていました。福岡の西と東の職人町、それに続く材木町などに住んだ職人には、そのような例が多いようです。
職人は城下町で製品を作るだけでなく、江戸時代初めの島原の陣、ポルトガル船来航時の長崎警備(けいび)などに随行(ずいこう)し、工兵(こうへい)的な役も果しました。しかし、江戸時代の中頃までには、大平の世のため、あるいは藩財政難のため、多くの職人が扶持を返上し、新しい産業に自活の道を求め、福岡や博多の別の場所へ移る人々もいました。それでも特に藩主と関りの深い仕事では、幕末まで活動を続ける職人の家もあったのです。