平成10年2月24日(火)~4月19日(日)
田中定増(源工)像 |
武器、武具関係の職人
福岡藩の多数の武器、武具職人のうち、本展では刀と甲胃の名工達を紹介します。
刀工ではまず信国(のぶくに)派の一門があります。その祖は京信国派の流れをくむ信国吉貞(よしさだ)で、黒田如水(じょすい)が豊前中津に招き、その後、黒田長政が筑前に移ったあとを慕い、豊前を脱出して福岡に来ました。その子孫は、吉次(よしつぐ)、吉包(よしかね)を経て重包(しげかね)の時に、当時の徳川将軍吉宗(よしむね)の刀剣作品大会で優秀作に選ばれました。一方、備前福岡(現岡山県)の一文字(いちもんじ)派はの名工是次(これつぐ)も、長政に招かれ、博多の東隣りの箱崎で活動し、石堂(いしどう)派の祖となりました。その後を継いだ守次(もりつぐ)も有名で、藩の刀工をつとめています。
甲冑帥では、慶長9(1604)年、長政が京都から岩井(いわい)氏を招きました。6代藩主黒田継高(つぐたか)の頃、岩井氏の中から田中定増(さだます)が出、御神器(ごしんき)と呼ばれる如水、長政の甲冑、忠之(ただゆき)以後の歴代藩主の甲冑の修理に当りました。その子定勝(さだかつ)(巌(いわお))も10代斉清(なりきよ)、11代斉(なり)(長)溥(ひろ)の甲冑の新製に携わり、その功で4石8人扶持を与えられます。
友泉亭棟札 |
大工木札(表と表) |
建築関係の職人(大工)
城と城下町建設、その後の維持管理に活躍したのは大工の人々でしょう。福岡藩では初め福岡の大工町に集められましたが、寛永(かんえい)15(1638)年、2代藩主黒田忠之により新大工町(現中央区黒門付近)に移されました。
江戸時代の中頃のこの町の大工棟梁(とうりょう)37の由緒(ゆいしょ)を見ますと、先祖は播磨の出身で、始めは大工町に住み、その子も島原の陣へ参加し紅葉(もみじ)八幡宮造営に携わったため、代々棟梁役となります。また博多の大乗寺町の大工新之丞(しんのじょう)の先祖も播州出身で、大工を多数連れた棟梁で、藩の御用を父子で勤め、博多の東長寺建築にも携わります。展示資料22は宝暦(ほうれき)4(1754)年に6代藩主黒田継高(つぐたか)が造った別館・友泉亭(ゆうせんてい)(現城南区友泉亭)の一部を、後に建替えた時の棟札(むなふだ)(屋根裏に掲げる札)、23は福岡藩御銀(おぎん)奉行所の幕末の修理の時の壁板です。いずれも仕事の完成の記念で、担当の藩役人の名前あと、当時の大工の棟梁などの名前が記されています。また24は福岡の町々に住む大工が福岡城内の御普請役所に仕事で1日出かける時の給米銀の定め札で、一般の大工の日常の仕事が窺えます。
博多織の図(筑前名所図会) |
博多の献上品(けんじょう)
博多には古くからの対外交流によって培われた技術で生れた名産品が多く、福岡藩が徳川将軍に献上(けんじょう)したり、他の大名に贈ったりする品物に選ばれていることでも有名です。
博多織は古く中国から織方(おりかた)が伝わったとされますが、江戸時代の初めに竹若(たけわか)家が唐織(からおり)技術を習い織り出しを始めてから一層盛んになり、毎年10月、幕府に献上されました。江戸時代の中頃で、博多の町の中には竹若家をはじめ12軒の織屋(おりや)があり技術を競っています。他の献上品で博多索麺(そうめん)は、戦国時代高田善四郎が始めたとされ、如水が江戸への献上品に使いはじめました。また博多練酒(ねりざけ)は、その色が練絹に似ていることからそう呼ばれ、古くは博多の小田氏の家だけで造られていましたが、江戸時代、多くの家が作り始めます。いずれも秋の藩の幕府献上品でした。江戸時代の後期、博多の麹屋番(こうじやばん)(現博多区下川端)で、博多練酒屋1戸、博多織屋2戸、索麺屋が11戸あり栄えていたと記録に残されています。