平成10年4月21日(火)~6月21日(日)
○亀井家について
江戸時代中期になると、諸藩における藩士教育が盛んになり、福岡藩でも天命(てんめい)4(1784)年に朱子学を基調とする藩校東学問所(修猷館)、徂徠学(そらいがく)(儒学者荻生徂徠(おぎうそらい)が提唱した学問)を基調とする西学問所(甘棠館(かんとうかん))が設立された。
この西学問所の祭酒(さいしゅ)(館長)となったのが、福岡藩儒亀井南冥(ふくおかはんじゅかめいなんめい)(1743~1814)である。ところが、寛政(かんせい)4(1792)年“寛政異学の禁” を受け、南冥は祭酒職を罷免された。さらに寛政10(1798)年、西学問所が火災となり、そのまま廃校となった。その時、南冥の後をついで福岡藩儒となっていた長男昭陽(しょうよう)(1773~1836)もその織を解かれた。しかし昭陽は、享和(きょうわ)元(1801)年私塾を開くことで、子弟の教育に当たったのである。
亀井家は特に一家そろって学問に秀で、南冥、その弟の曇栄(どんえい)、長男昭陽、次男雲来(うんらい)、三男大年(だいねん)の5人を世の人は親しみを込めて「五亀(ごき)」とよんだ。
○少きんの生い立ち
この様な家庭の中に生まれたのが亀井少きん(かめいしょうきん)(1798~1857)である。名は友(とも)という。祖父南冥、父昭陽の教育のもと、画文をよくした。その出来栄えの良さに父昭陽は、「この子が男であればよかったのに」と残念に思ったとのことである。
18才の年、亀井塾で学んでいた三苫雷首(みとまらいしゅ)(後に亀井姓)(1789~1852)と結婚、家庭の主婦としての道を歩み始める。
ところで、少きんの恋愛については、面白い話が伝えられている。かねて求愛されていた男性に次の様な詩を贈ったというものである。
「九州第一梅、今夜為君開、欲知花真意、三更踏月来」(九州で一番すばらしい梅の花が、今夜あなたのために開きます。そのわけを知りたければ、三更<午前O時頃>に月影を踏んで見にきてください。)少きんの、大胆かつ天衣無縫な性格が知られる。はたしてその相手が夫となる雷首であったかどうかは、定かでない。
さて、筑前の女性文化人というと、貝原東軒(かいはらとうけん)、原菜蘋(はらさいひん)、二川玉條(ふたがわぎょくじょう)、野村望東尼(のむらぼうとうに)などがあげられる。彼女たちに共通していることは、父、夫など彼女たちを取り巻く人々が、学問の造詣が深いということ、そんな環境の中で生きてきたということである。亀井少きんも例外ではなかった。この中で、秋月の儒学者原古処(はらこしょ)の娘である、原菜蘋(1798~1859)は少きんとほぼ同時代に生きた。少きんが、妻として母として生き、ほとんど福岡からでることはなかったのと対称的に生涯独身を通し、その大部分を旅で過ごした。この2人の生き方は違ってこそいるが、おたがい「猷さま」(原菜蘋のこと)、「友さま」(亀井少きんのこと)と呼び合って交際する仲であったという。
○少きんの絵画について
次に、少きんの絵画についてみてみる。少きんは四君子(しくんし)(梅・竹・蘭・菊の呼称)を始めとして、鶴、亀、風景画など様々な題材の絵を描いており、特に四君子を描くことを得意としたという。その描き方には勢いがあり、少きんの大らかな性格がしのばれる。
また賛(ぎん)をみると、大部分は少きんが自賛しているのだが、中には夫雷首が賛をよせているものも見られ、夫婦の仲の良さが思い浮かべられ、微笑(ほほえ)ましい。少きんの賛は、中国の故事から題材をとっているものが多い。その中でも、世俗と離れて暮らしている隠士(いんし)をとりあげたものが多く、ここから少きんの理想としていた世界を垣間見ることができるのである。
さらに、引首印(いんしゅいん)(掛幅の右肩に押されている印)を見ると「窃窕(ようちょう)」と彫られた印をよく使用している。これは、女性の奥ゆかしさ、しとやかさを意味する。少きんの理想とした女性像を印に込めたのだろうか。
本展示は、この筑前を代表する女性文化人亀井少きんの作品を、絵画を中心に紹介するものである。
時代 | 年齢 | 事蹟 |
寛政10(1798)年 | 1 | 少きん生まれる。 火災で消失していた藩校西学問所(甘棠館(かんとうかん))の再建中止の決定がなされる。 |
享和2(1802)年 | 5 | 中断されていた亀井塾が再開される。 |
文化6(1809)年 | 12 | 父昭陽が藩命により、烽火台(のろしだい)番に就く。 |
文化11(1814)年 | 17 | 祖父南冥死す(72才)。 |
文化14(1817)年 | 19 | 三苫雷首(28才)と結婚(後に亀井姓となる)。 |
文政6(1823)年 | 26 | 長崎奉行が少きんの書画を所望しているとの話が、福岡藩を通じて伝えられる。 |
文政7(1824)年 | 27 | 長女紅染(こぞめ)が生まれる。 |
天保元(1830)年 | 33 | 長女紅染死す(7才)。 |
天保2(1831)年 | 34 | 『守舎日記(しゅしゃにっき)』(医者である夫雷首の生月(いきつき)往診の留守中の記録)を執筆する。 |
天保7(1836)年 | 39 | 父昭陽死す(64才)。 |
嘉永5(1852)年 | 55 | 夫雷首死す(64才)。 |
安政4(1857)年 | 60 | 少きん死す(60才)。 |