平成10年4月28日(火)~8月2日(日)
野多目遺跡群(のためいせきぐん)出土の縄文土器(じょうもんどき) |
最近の話ですが、西区の大原(おおばる)D遺跡(いせき)から約1万2,000年前の住居の跡が発見され話題をよびました。昔から福岡市は、弥生(やよい)時代に比べて縄文(じょうもん)時代の遺跡が大変少ないと考えられていましたが、相次ぐ発見により、市内にも他地域にひけをとらないほどに縄文遺跡の存在することが分かってきました。そこで今回は、最新の出土品から縄文時代の福岡を語るという企画を試みました。常設総合展示室では、わずかひとつのケースに納められている縄文時代ですが、実に1万年の長きにわたります。総合展示で紹介できなかった、稲作以前の福岡の歴史と人々のくらしをお目にかけましょう。
一口に1万年といっても、長い時代なので、全てを一度にお見せすることはできません。そこで今回は、主にこの時代の後半に焦点をあて、約4,000年前から、稲作が福岡に伝わった約2,400年前までの時代に絞って展示を組みました。機会があれば、これ以前の時代についても紹介しようと考えています。
縄文のない世界・九州
明治10(1877)年に日本で初めて貝塚(かいづか)を発掘調査したアメリカ人動物学者エドワード・S・モースは、出土した土器についていた縄目の文様を「Cord Marked」と名付けました。これは「縄文(じょうもん)」と訳され、昭和初期に山内清男(やまのうちすがお)により、縄を土器に押しつけながら転がして付けられた文様であることが分かり、以後これらの土器を「縄文土器」と呼ぶようになりました。ところが不思議なことに、九州の縄文土器にはこの縄目の文様のある土器がほとんどないのです。今私たちに「縄文人」と呼ばれていることを、稲作以前の福岡の人々が知ったら、どんな顔をするでしょうか。
東日本の縄文文化の影響
氷河期(ひょうがき)がおわり温暖化が進んだ日本では、6,000年ほど前に最も温かい時代を迎えました。当時の年間平均気温は今と比べて西日本では1~1.5℃ほど高かったようで、この頃海岸線が内陸へ入りこむ「縄文海進(じょうもんかいしん)」がおこりました。ところが、これを境に気候は再び寒冷化へと向かい、弥生時代に入った頃は、逆に今より1℃ほど気温が低くなったと見られ、わずかの間に2℃ 以上も寒くなったと推定されます。
気候が急に寒くなりつつあった4,000年前頃、これまで縄文のなかった九州の土器に突然縄文が付けられるようになり、埋甕(うめがめ)(主に乳幼児を甕(かめ)に入れて葬(ほうむ)る風習(ふうしゅう))・土偶(どぐう)(土製の人形に安産などを祈(いの)る風習)といった新しい文化要素も見られるようになります。
より寒冷化が進んだ東日本では、森やそこで暮らす動物たちの様子が一変し、食料としていた木の実やけものが獲(と)れなくなったようです。その結果、そこで暮らせなくなった人々が西日本へ移動して、これまでなかった習俗や文物をもたらしたのではないかと考えられます。
桑原飛櫛貝塚(くわばるひぐしかいづか)の調査風景 |
稲作以前の人々のくらし
縄文人の食生活は、食用植物を集める(採取(さいしゅ))、魚や貝を取る(漁撈(ぎょろう))、けものを獲る(狩猟(しゅりょう)) の三本からなっていました。特に重要だったのは採取で、カシやシイなどの木の実、ヤマイモやワラビなどの根茎類(こんけいるい)などを粉(こな)に挽(ひ)いて食べました。また、肉などを混ぜてパン状に焼くこともあったようです。
縄文時代のゴミ捨て場としても知られる貝塚(かいづか)では、縄文人の食べ滓(かす)が大量に発見されます。ぼう大な貝の量に目を奪われがちですが、殻(から)を除けば収穫量(しゅうかくりょう)の2割前後しか口に入れることができません。むしろ一緒に出てくる獣(けもの)や魚(さかな)などが縄文人の胃袋を大いに満たしたようです。