平成10年4月28日(火)~8月2日(日)
重留遺跡(しげとめいせき)の住居跡(じゅうきょあと) |
住まいと生活のわざ
縄文人のすまいは、地面に穴を掘って屋根に茅(かや)を葺(ふ)いた「竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)」と呼ばれるものです。写真は早良区重留遺跡(さわらくしげとめいせき)の住居跡で、ここでは5軒の住居跡がひとまとまりとなった集落(しゅうらく)(ムラ)が発見されています。
また、縄文人は多くのすぐれた技術を持っており、石器(せっき)作りの技術など、現在では失われてしまったものが大半ですが、魚撈(ぎょろう)やウルシの技術など、この時代に培(つちか)われ今に受け継がれているものもあります。
縄文時代に農耕(のうこう)はあったか
縄文時代の後半(3,500年前)頃、土掘り具と見られる石器が爆発的に増加します。この現象は農耕が行われたことの証拠と考えられたこともありましたが、近年ではヤマイモ・クズ・ワラビなどの根茎類(こんけいるい)を盛んに食べるようになったために増えたと考える研究者が多いようです。
最近、早良区の四箇遺跡(しかいせき)で、土層中から得られた植物の花粉(かふん)と種子(しゅし)の分析により、縄文時代にムギ・ヒエなどを栽培していた可能性のあることが指摘されました。また、熊本県や北九州市の遺跡では穀物栽培の存在を示す資料も発見されています。はたして、稲作以前に農耕はあったのでしょうか。
雀居遺跡(ささいいせき)の調査風景 |
稲作のはじまり
今から約2,400年前、中国(ちゅうごく)・朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から北部九州に稲作が伝わり、弥生時代が幕を聞けます。縄文時代の終わり頃、人々はすでに栽培作物を含む植物食料に大きな比重をおく生活をしており、次代のコメつくりを中心とする新たな生活に対応する下地ができていたと考えられます。
福岡から長崎にかけての地域には、縄文時代の古い段階から外洋性(がいようせい)の漁撈文化(ぎょろうぶんか)が発達し、朝鮮半島南部との深い交流を示す釣針(つりばり)やモリなどの漁具や土器が多数発見されています。コメつくりの導入にあたっては、後に「倭(わ)の水人(すいじん)」と呼ばれたかれら漁撈民(ぎょろうみん)が大きな役割を果たしたとみられています。
(吉武 学)