平成10年6月23日(火)~8月23日(日)
1 黒田長政像 |
4 古代福岡分限帳(部分) |
7 黒田長政知行宛行状 |
12 慶長七年早良郡重留村検地帳(部分) |
15 黒岡如水夢想連歌 |
23 黒田長政書状(桐山孫兵衛宛・部分) |
展示について
慶長5(1600)年、黒田長政は関ケ原(せきがはら)の合戦の功で、徳川家康(とくがわいえやす)から筑前(ちくぜん)国を与えられ、同年12月、この新しい領地へ入国して来ました。そして元和(げんな)9(1623)年に死去するまで初代福岡藩主として、藩の基礎を固めました。この展示では、彼の藩政のうち特に筑前入国から慶長19(1614)年大坂の陣頃までの時期を取り上げます。この時期は、慶長10年に将軍を子の秀忠(ひでただ)に譲った家康が、大御所(おおごしょ)として全国をおさえる一方、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の遺子秀頼(ひでより)も大坂城にあり、徳川幕府も基礎固めの途中で、将軍と諸大名の関係もまだ不安定でした。長政も筑前福岡に長く居り、領内の政治(家中仕置(かちゅうしおき)、国中仕置(こくちゅうしおき))を取っています。
この展示では、この時期の長政の藩政について、当時の歴史の証人ともいえる古文書や記録類を中心に、本館収蔵品の中から選んで展示し、江戸時代の幕あけとも言えるこの時代の、福岡の姿を紹介していきます。
家臣団と農村を治める
長政は始め、前の筑前領主小早川秀秋(こばやかわひであき)の居城だった名島(なじま)城(現東区名島)に入りましたが、大国の城下町としては手狭なため、新たな城の建設を始めます。領内は慶長6年春には、藩主の直轄地(ちょっかつち)(蔵入地(くらいりち))のほかは、後に黒田二十四騎(くろだにじゅうよんき)と呼ばれた重臣をはじめ、多数の家臣に、それまでの戦功や働きに応じた知行地(ちぎょうち)(支配できる土地)が与えられました。栗山(くりやま)、井上(いのうえ)、母里(ぼり)などの家老の人々や、黒田氏の一族は1万石以上の知行を受け、領内の支城を受け持ち筑前国境を守りました(資料4)。知行地を与えられた家臣には藩主長政の知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)と知行目録(ちぎょうもくろく)が発給(はっきゅう)されます(7、8、9)。同7年には筑前国の領内の検地がおこなわれ、村ごとに作られた検地帳には、田畠の等級、広さ、石高(こくだか)、耕作者が記入されて、その村の新しい石高が決められました(12)。それらの村々の石高は、それまでの石高の数倍あったといわれます。長政時代の農政のしくみは、各郡に郡奉行がおかれ、その下に蔵入地の代官や知行地の家臣が農民の指導に当りました。長政は彼らが農民ともめることなく支配し、収穫を上げていくように郡奉行に命じています(11)。
城下町の完成と海への道
博多の西どなり、那珂(なか)郡警固(けいご)村福崎(ふくざき)の地に、慶長6年から7年がかりの大工事により、福岡城と城下町福岡が完成しました。福岡とは黒田氏のゆかりの地備前(びぜん)福岡(現岡山県)にちなんで付けられた名前です(15)。その最中、黒田長政は慶長8年、徳川家康の京都上洛に従い、正式に筑前守に任ぜられています(17)。また同9年、父の黒田如水(じょすい)が福岡城三の丸の隠居所で死去し(20)、名実ともに長政の筑前支配が始まります。そして慶長10年、12年と国中の浦(うら)や町(まち)、郡(ぐん)部の人々を対象とした錠書(おきてがき)が出されています(21、22)。その浦錠では長政が海上交通の要地である筑前の浦々へ支配を進めていくようすがわかります。さらに長政は、筑前入国の際に従って来た商人大賀宗九(おおがそうく)に命じ、慶長11年に徳川家康から海外渡航の許可書である朱印状(しゅいんじょう)を受けさせ、タイやベトナムとの交易をおこなわせています(25、26) 。これにより大賀氏は巨万の富をい築いたといわれ、福岡藩の筆頭町人としての地位を得、福岡藩の御用(ごよう)をつとめました。その一方で、慶長11年から幕府の命で、将軍の江戸城、家康の駿府(すんぷ)城(現静岡市)の修築の大工事を手伝いました。家臣が筑前からの船を使って石材運びなどをした古文書等が残っています(23)。これら幕府への御手伝普請により、藩財政は苦しくなり、長政も国内政治の締直しをはかっています。
28 木丸肩衝の記(部分) |
長政ゆかりの書と道具
今回は、長政の持っていた茶湯(ちゃゆ)の肩衝(かたつき)の名器を、古代の天智(てんち)天皇が詠んだ筑前上座郡朝倉宮木丸殿の和歌にちなみ、「木丸(きのまろ)」と名付けた話が記された書(28)や、長政が、関ケ原の合戦に着用した一(いち)の谷形兜(たになりかぶと)と黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまるぐそく)、長政の若い頃からの愛刀無銘二字国俊(むめいにじくにとし)、筑前一国の大名になったことから「一国(いっこく)」と名付けた、長吉作の大身鎗(おおみやり)も紹介します。
(又野 誠)