平成10年8月4日(火)~11月1日(日)
成人の日の氏神参り(西区宮浦) |
3、満年齢の発生
明治時代に、新しい年齢の数え方が導入されます。満年齢です。明治5年12月3日を以て明治6年の1月1日とした太陽暦への改暦は、年齢の数え方にも影響を与えました。明治6年太政官布告第三六号で、年齢は「幾年幾月」と数えるように決められた後、明治35年の「年齢計算二関スル法律」で「年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス」と示され、現在と同じ満年齢が公的な年齢となりました。
ところが、ほとんどの人たちは、それまで使い慣れてきた数え年を使い続けていました。昭和24年に「年齢のとなえ方に関する法律」が出され、改めて年齢を満年齢に統一するよう決められるまでこれは続きます。戦前の社会では、まだ個人の年齢が年取りの行事と不可分な状態にあり、生活年齢としての数え年と公式年齢としての満年齢を使い分けることが定着していきました。
4、学年の優越
ところが、ムラの年齢秩序の中は、数え年よりも学年を重視しました。
明治5年に出された学制以来、学校教育は着実に私たちの生活の中に定着してきました。明治18年に、公立小学校で学年制がはじまり、明治33年の小学校令施行規則によって、はじめて学年が4月1日に始まり3月31日に終わると規定されました。
実際には、明治20年代から全国の小学校では4月学年始めが実施されていたようですが、現在の形はここにはじまります。
志賀島では、終戦直後まで、男が数え年19歳になると、元服をおこなっていました。着物を新調し、志賀海神社に参りましたが、家を出るときには髪に剃刀をあてたといいます。元服を迎えた若者は、そろって神社へ向かいましたが、なかには早生まれ18歳も混じっていました。つまり、学年が数え年に優越していたわけです。
また、昭和4年生まれの人は、はじめて制定された成人の日の対象者でしたが、その時は、1学年上の早生まれの人と一緒の式であったので、たいへん違和感があったといいます。この状況はしばらく続きますが、同窓会が開けなかったという話が聞かれるのも、学年結合の優位性を示しています。
還暦の記念植樹 |
5、同年組の結合
平成9年に還暦を迎えた志賀島の同年組の1年をみると、1月10日エビス回り、2月11日記念植樹、3月17日初午、4月12日還暦賀、4月27日お大師さま、5月第3日曜運動会・年齢別対抗演芸大会などと、とても忙しい1年を送っています。
この同年組は、昭和12年・13年生まれの同級生の集団で、彼らの結合の強さは特筆すべきところがありますが、この行事の多さは、同年組の行事がだんだんエスカレートしてきたことを物語っています。もともと初老賀の時にだけおこなっていた記念植樹がはじまったのも、エビス回りを始めたのも昭和50年代頃のことですし、お大師さまに集団で参加するのも昭和7年生まれの人たちからだといいます。
志賀島では、このような強く結合した同年組が学年の数だけ存在しています。それがはっきり見える場が、初午の日に61歳が81歳の人たちを招いて開く宴と、賀祝いの時に61歳を41歳が招いて開く宴です。20歳ずつ年の離れた同年組が繋がり、一種の連帯感を持っているのです。これが直接ムラの仕組みの中に明確な形をもって現れてくることはありませんが、緩やかな結合の中でもう1つの村落組織として機能している点は注目されます。
(松村利規)
主な展示資料
宮参り着物/1点/昭和初期
選び取り用具/5点/近代
ポッポ膳/6点/近代
米寿祝記念写真/1点/大正15年
明治六年癸酉頒暦/1点/明治5年
明治六年太陽暦/1点/明治5年
卒業証/1点/明治12年
第三学年生皆勤証/1点/明治29年