平成10年11月3日(火)~平成11年1月31日(日)
明治博多風俗図「近郊農人のこえとり」 |
都市と近郊のネットワーク
都会と田舎のあり方も互いの距離で違う意味を持っていました。遠方の人々にとっての博多は、たまに訪れる憧れの都会でしたが、近郊の農・漁村にとっては普段の生活に深くかかわる都市でした。
たとえば農家は肥料として人糞尿を欲し、都市民にはそれを処分する必要がありました。そこで農家は、毎月得意を定めて汲み取りにいき、できた新米をお礼に届ける関係を結んだのです。漁村からの行商人も都市民と得意関係を持ち、日常の行き来をおこなってきたのです。
都市と近郊を往き来するこれらの人々は、都会の情報を地元にもたらす文化の運搬者でもありました。また奉公(ほうこう)に出た村の若者たちは、さまざまな仕事を得ることで都市生活者としての“いろは” を学んだのです。
いっぽう博多の側は、日頃のお礼に近郊の人々を祇園山笠に招待しました。博多では江戸時代から、山笠を舁(か)く加勢人をこのような近郊の村に頼んできたのです。それ以外にも山笠見物は、より広く、多くの田舎人を博多へと誘(いざな)いました。このような非日常的な交流は、都会のきらめきをいっそう増幅させ、都会の魅力を田舎に伝える原動力となったのです。
ハカタイキ(着物) |
変身の道具・ハカタイキ
ハカタイキにはもうひとつの意味があります。博多に代表される都会に行くとき着る着物のことを指しているのです。
着物には普段着とヨソイキがあります。ハカタイキはヨソイキのひとつで、たいてい一張羅(いっちょうら)でした。博多賑やかなりし頃のハカタイキと言えば、男性は絣(かすり)の長着物に羽織、山高帽(やまたかぼう)に雪駄履(せったば)きといういでたちでした。日ごろ身につけるものではなかったので、この姿を見ると博多に行くことが誰にでもわかったといいます。
佐賀県肥前町には、ハカタイキとともにカラツイキという言葉があります。カラツイキも、唐津に出かけることと、そのときの着物を意味しているのです。カラツイキはハカタイキと比べると程度が少し落ちる着物だったそうです。
ヨソイキの着物を身につける。これは、日常とは違う世界に入ることを意味しています。玄界島では、ハカタイキを着ると、博多弁で話をしたといいます。博多弁を使うことなど、島の日常ではありえないことだったのです。つまりハカタイキは、都会という別世界に入るためにうみだされた変身の道具だったのです。
ハカタはミヤコにつづく
「はた(博多)にくれば な(何)でもある すど(水道)ある みずくまん ひこき(飛行機)もみた けむりはいた」
これは、長崎県壱岐島から博多に奉公にでた女性の実家への手紙の一部です。壱岐の人は、博多に行くことをミヤコイキといいました。当地で、対馬に行くことをタイシュウイキというのと較べても、よりきらびやかな、晴れがましい場所へ赴くという感覚が窺(うかが)えます。佐賀県東松浦郡にも同様の感覚があります。周辺の田舎にとって博多はミヤコだったのです。
昭和10年代、福岡市では博多の寿通(ことぶきどお)りを東京浅草の仲見世(なかみせ)に、天神を丸の内に見立てるような説明がなされるようになりました。そこでは福岡という一地方都市が、花の都・東京へと置き換えられ、人々はそこに遠い世界への連絡通路を見ていたのです。
ミヤコとは具体的に京都や東京を指すのではなく、田舎人がふだん体験できない情報を発信するところであり、ハカタは人々の都会への憧れを実感できる場所だったということになります。そしてハカタイキとは田舎の人々が特別な着物を身にまとい、特別な意識を持って、博多で新しい情報に触れることだったといえるでしょう。
(福間裕爾)
主な展示資料
引札/昭和時代
ポスター/昭和時代
チラシ・広告/昭和時代
明治博多風俗図/昭和時代
着物/昭和時代
肥桶/昭和時代
看板/明治時代
相撲番付/明治時代