平成11年4月6日(火)~5月16日(日)
水晶宮が描かれたビープショー |
テレビが普及し、海外旅行も飛行機に乗って短時間でできるようになり、最近ではインターネットなど新しいメディアの登場もあって、今は世界各地の情報を簡単に手に入れることができます。しかし、19世紀から20世紀前半の頃は、博覧会の会場は「世界」を見ることができる限られた機会の1つでした。
万国博覧会の誕生
1851年、ロンドンのハイド・パークで世界初の万国博覧会が開かれました。この時期に、万博が開催できたのには、ヨーロッパとアメリカやアジアを結ぶ蒸気船航路が開設され、ヨーロッパを中心に世界が一つになったという背景もあります。
このロンドン万博は、ヴィクトリア女王の夫アルバート公が総裁になって開催され、大英帝国を中心とする「万国」の工業製品や美術品などが集められました。展覧会場になった水晶宮(クリスタル・パレス)は、巨大な温室のような鉄骨とガラスでつくられた建物で、それ自体が博覧会の呼び物になりました。5月から10月まで141日間の会期中に約600万人の人々が会場をおとずれ、その収益で現在もハイド・パークの近くにあるヴィクトリア&アルバート美術館などの施設がつくられました。この世界初の万博の成功後、殴米諸国はきそって万博を開催しました。
博覧会事始め
1862年のロンドン万博には、駐日イギリス公使オールコックのコレクションという形で、日本の漆器などが出品されました。1867(慶応3)年のパリ万博には、当時の幕府、鹿児島藩、佐賀藩が参加し、幕府は、将軍の名代(みょうだい)として15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実弟である徳川昭武(あきたけ)を派遣しました。昭武は、ヨーロッパ諸国を親善訪問し、万博閉幕後パリ留学中に明治維新のため帰国を命じられ、1868(明治元)年11月に帰国しました。日本が万博に初めて参加したのは、まさに、国のあり方が根本的に変わろうとしている時期だったのです。
日本政府が初めて正式に参加したのは、1873(明治6)年のウィーン万博です。工芸品などを出品した展示場のほかに、会場内に、日本庭園を建設し、その建設作業風景も注目の的になったようです。政府は、こうした日本趣味を前面に出した展示を行うほかに、ヨーロッパの先進技術を学ばせるために、多くの留学生を万博に送り込みました。
幕末から明治時代の初期に欧米を訪れた日本人は、博覧会や博物館の「百聞は一見に如(し)かず」の教育効果に注目しました。そこで、日本でも博覧会を開こうという動きが明治の早い時期からあらわれます。
日本国内で聞かれた早い時期の博覧会としては、1872(明治5)年の湯島聖堂博覧会が代表的なものです。この博覧会は、文部省博物局が主催したもので、翌年のウィーン万博への出品資料の収集も兼ねて、全国から資料を集めました。福岡藩の旧藩主黒田家からも、金印、印子金(いんすきん)、金鉱石が出品されたようです。この湯島の博覧会は、当初20日間の予定で開会しましたが、観覧者が多く、会期を1ヶ月間延長したという大評判の博覧会でした。博覧会閉会後は、常設の博物館として1と6のつく日(当時の公務員の休日)に公開されました。(1875・明治8年以降は日曜日も開館。ほかに臨時の連日開館もあり。)この湯島の博物館は、移転や所管の変更などを経て、1882(明治15)年、上野公園で開館した現在の東京国立博物館へと発展しました。(上野公園への移転以降、年末・年始と月曜休館という常時公開の態勢になる。)
第2回内国勧業博覧会(1881・明治14年) |
内国勧業博覧会
明治政府は、殖産興業政策の一環として内国勧業博覧会を開催しました。第3回までは東京の上野公園、第4回は京都、第5回は大阪で開かれています。内国博をはじめ、明治時代の博覧会は、見本市と品評会、展覧会などが一緒になったような催しです。博多人形や博多織なども、福岡の特産品として出品されました。明治時代の広告には、内国博で賞をもらったことが宣伝の一部に利用されていることがよくあります。