平成11年4月6日(火)~5月16日(日)
内国博での受賞を広告にした写真台紙 |
博多駅の2代目駅舎と市内電車(大正時代) |
アジア太平洋博覧会-福岡’98(1989・平成元年) |
博覧会の効用と影響
博覧会は閉会したあとに、何を残したのでしょう。世界初の万博である1851年のロンドン万博の展覧会場であった水晶宮は、閉会後に移築され、観光地として多くの人々が訪れ、イベント会場としても使われました。第2回内国勧業博覧会の際の美術館は、東京国立博物館の旧本館(関東大震災で被災)です。第4回内国博の跡地は岡崎公園(京都市)として、第5回内国博の跡地は天王寺公園(大阪市)としてそれぞれ整備されています。もちろん、博覧会は殖産興業を目的としていましたから、産業面での影響は言うまでもありません。1873年のウィーン万博に出品する資料調査のために実施された文化財調査は、文化財保護のための、明治政府の最初の具体的な対策となりました。1872(明治5)年のこの文化財調査は、壬申(じんしん)検査と呼ばれ、神社や寺院所蔵の文化財をはじめ、正倉院宝物の調査も行われました。
博覧会は、交通網や市街地の整備などにも大きな影響を与えます。福岡の例を挙げれば、1887(明治20)年の第5回九州沖縄八県連合共進会で中洲の開発が進み、1910(明治43年)の第13回九州沖縄八県連合共進会の開催に合わせて、福岡城の外堀であった佐賀堀(肥前堀)は埋め立てられ、市内電車が開通し、博多駅(2代田駅舎、1963・昭和38年に取り壊し)は新築されました。1927(昭和2)年の東亜勧業博覧会は、福岡城の大堀の一部を埋め立て、現在の大濠公園の原型を造りました。
ところで、1970(昭和45)年の日本万国博覧会(通称:大阪万博)は、アジアで初めて開催された万博で、約6,400万人が訪れた日本で最大の博覧会であり、統一テーマは「人類の進歩と調和」でした。「未来都市」の出現をめざした会場は、あまりの混雑で必ずしも期待どおりの効果を上げることはできなかったようです。しかし、映像を多用して「明るい未来」「豊かな未来」を演出する手法は、大阪万博以降のさまざまな博覧会へと受け継がれています。日常生活に関わるものとしては、洋式トイレやコインロッカーなどが一般に普及したのも、大阪万博以降だといわれています。
さて、1989(平成元)年、シーサイド百道(ももち)地区でアジア太平洋博覧会(通称:よかトピア)が開催されました。福岡市博物館の建物は、当時テーマ館として使用されました。博物館以外には、福岡タワーと西部ガスミュージアムがよかトピア当時からの建物です。また、毎年9月のアジアマンスは、よかトピア以降、福岡市の年間行事の1つとなりました。実際に、10年前のよかトピアを体験したみなさんは、よかトピアの1番の遺産は何だと思われますか?
(太田暁子)
参考文献
串間努『まぼろし万国博覧会』小学館/寺下勍『博覧会強記』エキスプラン/東京国立博物館『東京国立博物館百年史』/東京国立博物館『目でみる一二〇年』/東京国立博物館『東京国立博物館ガイド[本館篇]一歩近づいて見る日本の美術』/山本光雄『日本博覧会史』理想社/吉田光邦『万博の日本館』INAXブックレット/吉田光邦『図説万国博覧会史』思文閣出版/吉見俊哉『博覧会の政治学』中公新書