平成11年5月18日(火)~平成11年7月11日(日)
ポスター「衆議院議員選挙」 |
今春は4年に一度の統一地方選挙が行われました。わたしたちの身近なくらしを左右する首長や議員を選ぶ選挙でした。あなたは投票に行きましたか。周囲の方々はどうでしたか。
国政選挙であれ、地方選挙であれ、この一票でわたしたちの声が政治に反映されるといっても、あまりピンとこないのが実感ではないでしょうか。
今回の「戦争とわたしたちのくらし」では戦時下の選挙についてとりあげました。総力戦体制の下では、国民の意見など顧みられなかったと思われがちですが、「十五年戦争期」(昭和6年満州事変から昭和20年敗戦まで)でも選挙は行われていました。選挙をめぐって当時行われた議論をみると、明治以降日本人が選挙をどのように捉えていたかがわかってきます。たかが選挙?いいえ、大事な選挙です。あなたはどう思いますか。一緒に考えてみましょう。
■議会の始まり
近代の日本の議会制度は、明治初期に欧米諸国の制度を採り入れて始まった。まず府県会(明治12<1879>年)、区町村会(明治13年)など、地方議会が設けられた。各地域の有力者はこれらの議会に議員として参加する一方、自由民権運動の流れに乗り、議会制度や選挙制度に関する知識を身につけていった。民権運動の国会開設要求に対し、全国的な議会として帝国議会(衆議院と貴族院)が発足したのは明治23年であった。
■選挙と「粛正」
20世紀に入ると日本でも「政党内閣」による政治が行われた。大正時代には立憲政友会と立憲同志会(後の憲政会、立憲民政党)とが並び立ち、二大政党が内閣を組織するようになり、「憲政の常道」といわれた。その一方、政党間の争いや議員が選挙区で利権を誘導したため、選挙違反や汚職が取り沙汰された。それらを解消するために選挙を改革しようという運動がおこり、「選挙粛正」といわれた。政党政治は昭和7(1932)年の「五・一五事件」まで続いた。
■「大政翼賛」
昭和12(1937)年に始まった日中戦争が長期化すると、総力戦体制をとるために政治や社会を改革しようという「新体制運動」がおこった。その結果昭和15年に大政翼賛会が創設され、多くの政党は解散した。翼賛会は町内会などを下部組織に取り込み、その活動は市民生活のすみずみまで行き渡った。多くの市民が戦時債券の購入などを通して、戦時体制に組み込まれていった。
■翼賛選挙
昭和17(1942)年4月30日に投票が行われた第21回衆議院議員総選挙をいう。本来は前年16年に行われるはずであったが、戦時体制下で延期されていた。候補者推薦制をとり、定数と同じ466名の推薦候補を選ぶため「翼賛政治体制協議会」が組織された。非推薦候補の立候補もみとめられたので、選挙干渉が行われたにもかかわらず、85名が非推薦で当選した。直後の県会議員補欠選挙でも推薦が行われた。
楽譜 |
■戦後の選挙
選挙は民主主義に不可欠なものという考えから、米国による占領下で昭和21(1946)年最初の衆議院議員総選挙が行われた。同年日本国憲法も公布され、議院内閣制が明文化された。また参議院議員も選挙で選ばれることになり、最高裁判所裁判官国民審査も行われるなど、選挙によって有権者の意見をきくシステムが採用された。
(野口 文)