平成11年5月25日(火)~7月18日(日)
山笠図(博多迺殷盛) |
松ばやしの三福神・傘鉾行列(筑前名所図会) |
博多を巡る山笠(山笠巡行図屏風) |
博多祇園山笠展8について
今年の展示も、黒田資料を始めとして、本館に収蔵している山笠(やまかさ)に関する絵画を中心に、当時の祭礼の勇壮で、華やかな姿を紹介します。また江戸時代の博多で、6月の祇園(ぎおん)山笠とならぶ大きな祭礼だった、正月の松ばやし(囃子)もとりあげ、描かれた松ばやしの絵画などで祭礼の様子を紹介し、また当時の古文書(こもんじょ)や記録からその祭の仕組みを祇園山笠とくらべてみました。この二大祭礼の展示を合わせて御覧いただき、当時の博多の力強い庶民社会・文化に思いを馳(は)せてください。
江戸時代の博多の二大祭礼
松ばやし、博多祇園山笠ともに中世以来の伝統を持つと言われますが、その祭の様子が紹介されたのは、江戸時代も中頃に入った元禄(げんろく)時代、福岡藩の学者貝原益軒(かいばらえきけん)の著した「筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)」です。
松ばやしは毎年正月15日、博多から仕立てられた福神(ふくじん)、恵比須(えびす)、大黒(だいこく)の三福神と稚児(ちご)の行列が福岡城内の御館の藩主のもとに新年の祝いの挨拶(あいさつ)にでむき、稚児は舞を奉納しました。そのあと、福岡から博多へかえり、寺社や町々の家々を祝って廻るものです。行列には、さらに通りもんとよばれる作り物の山車(だし)、仮装行列などや、跡巻(あとま)きとよばれる人々の列が続き、その日は終日賑わったといわれます。
山笠は、本来は夏の無病息災を願う祇園祭の作りものですが、博多では幟(はた)や毎年の題材によって作られる人形で飾られた6本の山笠が、6月15日の早朝、男たちに舁(か)かれ櫛田(くしだ)神社を出発し、町のなかを練り歩く、という勇壮で華やかなものでした。
明治時代の回顧記録
その後、明治時代にはいると、福岡藩主も東京へ移り、正月に松ばやしの行列が福岡城へ行くこともなくなり、山笠も近代化、都市化の影響で、飾(かざ)り山と舁(か)き山に分かれての祭りとなりました。
明治43(1910)年、博多最後の年行司(ねんぎょうじ)を勤めた山崎藤四郎(やまざきとうしろう)(宗雌)は、「追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)」を著しました。そこではこの2つの祭が、かつて博多の人々の他に誇るべきものであったにもかかわらず、今では内容が江戸時代のものと変わってしまったと嘆き、かつての姿を正確に記述に残そうとしました。現在の我々はそれによって、江戸時代の博多の町々や人々がこの2つの祭礼をどのように運営していたかを知ることができるのです。
博多の町々と祭礼組織
ではなぜこの2つの祭礼が、江戸時代の博多の二大祭礼といわれるのでしょうか。祭と町々の関わりをみてみましょう。江戸時代の博多には、約100の町々があり、その中で、さらに10町ほどの流(ながれ)とよばれるまとまりに分けられていました。松ばやしも祇園山笠も、この流ごとに祭礼での役割が決まっていました。松ばやしでは、福神、恵比須、大黒の三福神は、それぞれ魚町(うおまち)流、石堂(いしどう)流、須崎(すさき)流、稚児は、東町(ひがしまち)、呉服町(ごふくまち)、西町(にしまち)、土居(どい)の4流が担当しました。また、山笠は毎年、魚町、石堂、須崎、東町、呉服町、西町、土居の7流のうち、順番に6流が仕立て、残りの1つの流は、祭りをしめくくる鎮(しず)めの能(のう)奉納の世話をしていました。残りの流も町奉行の見物席(桟敷(さじき))造りなど何らかの役目を勤めていました。
また流れのなかでは、一年毎に当番年の町(当番町)が、流を代表して役目を勤め、その他の町々は、それを助けることとなっていたのです。また祭りで使う道具は、同じ流の前の年の当番町からその年の当番町へ大切に渡されていくのです。
その年の当番町が忙しいのは祭の当日だけではありません。松ばやしは10日まえの正月5日から、太鼓の練習や、行列の予行練習で自分の流の町々をめぐるなどの、準備をはじめます。山笠はさらに準備が大変で、山をつくるには2ケ月前から絵師や人形師に頼む事からはじまり、山を動かす練習も6月1日から、流の町々でおこなわれます。また祭礼の費用は、博多の町々の一戸毎(ごと)に徴収され、それが町奉行所から、その年の当番町へ助成銀として下げ渡されるほか、個別の町々でも当番の時に備え、積立てたといわれています。
このように江戸時代の絵ばやしと山笠は、当時の博多のほぼ町々全体をあげて、整然とした仕組みのなかで自治運営されており、そこに住んだ人々にとっては新春と夏との季節の到来を象徴するものだったといえましょう。
なお、現在かつての姿は、松ばやしは五月の博多どんたく港祭りの間の行列、山笠は、7月15日の追い山に受け継がれながらも、新しい福岡市の祭礼として賑わっています。
山笠絵図と絵師について
博多祇園山笠の絵師として三苫英之(みとまえいし)、主清(しゅせい)がいます。江戸時代には博多の町々は、人形の題材を町奉行所に予め描いて報告し、許可を得た後に、清書され藩主に献上されていたとされています。初めは藩の御用絵師上田氏が描いていましたが、やがてその弟子で、山笠の人形師として活躍していた三苫氏に依頼されるようになりました。3代英之は力強さ、4代主清は華麗さで有名です。
(又野 誠)