平成11年7月13日(火)~平成11年9月19日(日)
(1)トイレ遺構と出土した木簡の整理 |
写真提供:福岡市教育委員会 |
1987(昭和62)年末以来の発掘で、古代の迎賓館(げいひんかん)であった鴻臚館跡(こうろかんあと)と考えられる福岡城内から、かなりの文字史料が出土しています。木札に墨書きして、意志の伝達、記録などに使用された80数点の木簡(もっかん)をはじめ、墨書きされた須恵器(すえき)・磚(せん)・陶磁器、銘文(めいぶん)の刻まれた硯(すずり)・瓦などです。これらの文字史料によって、出土した遺溝の性格やこまかな年代などを知ることができます。
今回の展示では、平和台球場を撤去して今年から行われる本格的な発掘調査にあたって、鴻臚館跡から出土した木簡や文字史料を中心に、福岡市内で出土した古代のさまざまな文字史料を紹介します。出土した文字史料にはどんなものがあるのか。文字史料からどんなことがいえるのか。しばし古代の文字史料の世界をのぞいてみてください。
1 鴻臚館に関する研究
1987(昭和62)年末の平和台球場外野席の改修工事に伴う発掘から現在までの調査によって、奈良時代から平安時代の、鴻臚館の3期の建物の移り変わりが明らかになり、また大量の国産土器(土師器(はじき)・須恵器(すえき)) ・瓦・磚をはじめ、中国製陶磁器(唐~北宋)、朝鮮製陶磁器(新羅(しらぎ)~高麗(こうらい)) 、さらにイスラム系陶器・ガラス器など、国際色豊かな遺物が出土し、鴻臚館が当時の日本の国際交流の拠点であったことがわかってきました。
(2)「京都郡庸米六升(斗)」と書かれた木簡(奈良時代) |
2 鴻臚館出土の文字史料
木札に文字を墨書きして、意志の伝達、記録などに使用された80数点の木簡をはじめ、文字や絵が墨書された須恵器・磚・陶磁器、銘文の刻まれた硯・瓦など、かなりの量の文字史料が発見されています。このコーナーでは、鴻臚館から出土した文字史料の数々を、時代別に、また木簡や墨書土器(ぼくしょどき)など形態別に展示して、出土文字史料からどんなことがいえるのか、考えてみましょう。
(1)木簡(奈良時代)
鴻臚館跡の奈良時代のトイレ遺構から、クソベラ(籌木(ちゅうぎ))として再利用された80数点の木簡が出土しました。(写真1)税の品物に付けた荷札(にふだ)(付札(つけふだ))の木簡が大半で、「肥後国天草郡士志記(しき)里」(熊本県天草郡苓北町志岐)「京都郡(みやこぐん)」(福岡県京都郡)(写真2)などの地名、当時の税であった「庸米(ようまい)」「魚」などの名称が記されています。木簡を付けられ鴻臚館に運ばれた税は、遣唐使や遣新羅使、商客のために使われたものと思われます。
(3)「城」と記された須恵器の皿(奈良時代) |
(2)須恵器・漆器・磚(奈良時代)
須恵器の皿や外底に書かれた「城」(写真3)は、大宰府で出土した木簡の「水城」や「大城」のように、大宰府の防御施設である水城(みずき)や大野城(おおのじょう)などを連想させ、また漆器の皮膜(ひまく)に刻まれた「二坊」の文字は、条坊(じょうぼう)という古代都市の一区画を示すものと考えられます。さらに役人が筆ならしとして、文字や絵を描いたと思われる磚(せん)(レンガ)などの出土から、この遺構は確実に8世紀の奈良時代の役所であったことを示しています。
(3)文字瓦(平安時代)
鴻臚館跡からは奈良時代から江戸時代の大量の瓦が出土しています。これらのなかには「伊貴作瓦(いきさくかわら)」銘などの古代の文字瓦が含まれています。西区の斜(ななめ)ヶ浦瓦窯跡(うらがようあと)からは同じ「伊貴作瓦」銘の瓦が出土しており、鴻臚館の屋根に葺かれた瓦の一部は、斜ヶ浦瓦窯で焼かれたものであることが確かめられます。
(4)硯・墨書陶磁器・中国銭(平安時代)
円面硯(えんめんけん)に記された「蒋」は中国商人の名前と考えられ、中国製青磁碗2点と白磁碗2点の外底の文字は残念ながら判読困難ですが、貿易によってもたらされた陶磁器の一部と思われます。また「大泉五十(だいせんごじゅう)」(中国の新(しん)代、7年初鋳)は10世紀後半の土坑(どこう)から出土し、当時中国で流通していたものがまぎれ込んで輸入されたもので、10世紀以降の鴻臚館での貿易を示すものと考えられます。