平成11年10月13日(火)~12 月26 日(日)
芦別健夏山笠「追い山」 |
北海道の山笠
ハカタウツシが見られる範囲は、これまでは北部九州に限られていました。しかし、最近のテレビをはじめとするマス・メディアの発達は、この枠を取り払ってしまいつつあります。その代表例が北海道芦別市で行われている「芦別健夏山笠(あしべつけんかやまかさ)」です。
「昭和59年にNHKで全国放送された特集「熱走!博多山笠」を見て感動した芦別の人々は、翌年そのテレビの録画を参考にして山笠1本を自作して、当地の夏祭りに参加した。」これが「芦別健夏山笠」の始まりです。それまで芦別で行われていたのは「まとい踊り」というイベントでしたが、今一つ盛り上がりにかけていました。ちょうど何か祭りを盛り上げる催し物はないかと模索していたとき、この放送があったというのです。博多山笠は芦別の人には「かっこいい祭り」と映り、自分たちがやっても熱中でき、「燃える」と感じたといいます。昭和63年には山笠の数も4本に増えて、祭りの名称も「芦別健夏山笠」となりました。山笠を出す町々もグループを組み、博多に倣(なら)ってそれぞれ「○○流(ながれ)」と呼ぶようになっています。
芦別健夏山笠当番法被(中央流) |
博多祇園山笠当番法被(大黒流下新川端町) |
芦別健夏山笠舁き手の姿 |
このころ、見物人からは「毎年同じものではつまらない」などという声が聞こえてきたといいます。それは、まだ観衆が芦別の山笠を一過性のイベントと捉(とら)えていたからでした。芦別では博多のことを「本場」と呼びますが、山笠をイベントから祭り(つまりは民俗行事)に転換するべく、平成元年には「本場」を学ぶために博多に人を派遣しました。その年には「芦別健夏山笠振興会」を結成し、「赤手拭」をはじめとする役割ごとの手拭や「当番法被」を博多をウツシして製作することとなりました。その後も博多との交流は続き、平成2年にはお汐井取りを代用した「若松取り」そして「祝儀山」や「追い山」行事をはじめ、平成4年には、とうとう博多人形師を招いて、山笠を作るまでになるのです。今では、山笠も6本となり、どこからみても博多と全く同じといっていいほどになっています。
ここで、ちょっと博多祇園山笠の歴史を振り返ってみましょう。「博多祇園山笠」の始まりに関してはいろいろな説があり、15世紀にはすでに行われていたといいますが、いずれも確かではありません。山笠を祇園の祭りと捉(とら)えたとき、起源は当時都であった京都に帰着します。京都祇園祭りの「作りもの」である山(やま)と鉾(ほこ)のうち、博多は山を選択し、最初は模倣しながら、工夫を凝らして博多独自の形に発展させてきたといえるでしょう。『筑前櫛田社鑑(ちくぜんくしだしゃかがみ)』という記録の永享9(1437)年の項に、「京都四条の住、木偶師小堀善左衛門正直、招かれて博多に下り、櫛田社内に住む。」とあり、京都から人形師を博多に招いたことが記されています。また、同じ記録には「その年の作り山に人形を作りて甲冑を着せ旗幟を、ささせ、さまざまの模様を作りて祇園祭礼を勤む」ともあり、現在見られる山笠の原型がその人形師の手によって伝えられたことがわかります。博多の人々のミヤコを意識するこころが、京都から技術者を呼び、本物志向をすすめてきたといえ、「博多祇園山笠」は京都文化の影響を受けたミヤコウツシによる祭礼といえるかもしれません。
この博多山笠の歴史と先に述べた芦別健夏山笠の今日までの歩みを比べると時代の差はあるにせよ、共通したところがあり、中世に博多が京都祇園の様式を取り入れて発展してきた歴史が、現在この芦別で再現されているといえるような気がします。
(福間裕爾)