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No.156

美術・工芸展示室

博多鋳物師(はかたいもじ)

平成11年12月7日(火)~平成12年3月26日(日)


9 雲版一部(妙行寺蔵)

10 鶴首釜(本館蔵)

 鋳物(いもの)とは、熔(と)けた金属を型に流して作る器物のことです。鉄や銅の鋳物は、現代の私たちのふだんの暮らしの中では出番が減っていますが、昔の人々にとっては身近なものでした。田畑を耕す道具や日々の炊事の道具として鉄の鋳物は欠かせないものだったし、寺社に詣でれば、狛犬(こまいぬ)や灯籠(とうろう)などの青銅鋳物を目にし、釣鐘の音も耳にしたでしょう。この鋳物を作る職人のことを、ふつう鋳物師(いもじ)と言います。
 さて、江戸時代の博多には、大変優れた鋳物師たちが数多くいました。彼らを博多鋳物師と呼びます。博多鋳物師は、鍋釜や農具、寺社の仏具だけでなく、藩の御用で幕府献上用の茶の湯釜を作ったり、戦で用いる大砲や砲弾を製造しました。今日まで遺っている作例から、彼らの活躍ぶりを知ることができます。

 博多鋳物師の中でも、特に知られているのは。太田(おおた)・山鹿(やまが)・磯野(いその)・柴籐(しばとう)・深見(ふかみ)という名字を持つ人たちです。
 太田氏は、もともと遠賀(おんが)川の河口にある芦屋(あしや)の出身です。芦屋は、中世には茶の湯釜の名品として名高い芦屋釜に代表される、優れた鋳物の生産地でした。この芦屋から、太田氏の一部の人たちが天正年間(1573~1591)に博多へ移ってきたと考えられます。腕前の良さで知られ、江戸時代に入ると福岡藩の御用を勤めるようになります。特に、芦屋釜の伝統をひく茶の湯釜はたいへん重んじられ、3代藩主光之のとき、五次兵衛兼藤という人が幕府献上用の品をつくりました。これがきっかけで、兼藤のとき名字を山鹿とあらため、以降、山鹿氏は、代々の藩主が幕府に献上するための釜や鍋を作っています。


13-(1)(2) 片口鍋(福岡市埋蔵文化センター蔵)

 磯野氏、柴籐氏、深見氏は、いずれも武士が先祖でした。三氏のうち、博多で鋳物を始めたのは磯野氏が一番はやく、永禄年間(1558~1570)にいったん工房を構えましたが、天正年間の博多の戦乱で途絶え、天正15年(1587)、藤左衛門慶親という人が土居町(現・川端町冷泉公園の東側)で再び鋳物業を興しました。
 柴籐氏、深見氏は江戸時代に入ってからの創業です。柴籐氏は元和年間(1613~1624)に西町(現・博多区奈良屋町)にて鋳物を始め、これによって西町は釜屋番と呼ばれるようになりました。深見氏は承応3年(1654)~万治元年(1658)の間に土居町で鋳物師を始めました。
 さて、これらの博多鋳物師たちは、室町時代の終わりから江戸時代の初めにかけて博多にやってきたわけですが、もちろん、彼らがやってくる以前から博多では鋳物師が作られていました。
 近年の博多の発掘調査では鋳型(いがた)や鋳造道具の破片、そして鉄や青銅の製品自体も出土しています。それらのなかでも、把手(とって)のついた片口鍋は、細部にこらされた意匠も美しく、しかも同じ様なものが複数出土しており、中世の博多にも優れた鋳物師がいたことを物語っています。また、広島の厳島(いつくしま)神社には、正平21年(1366)に「博多講衆」という人々から奉納された銅製の釣灯篭が伝わっています。重要文化財に指定されているこの灯篭の作者は、従来、芦屋鋳物師と言われてきましたが、あるいは、博多の鋳物師が作ったのかもしれません。

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