平成11年12月7日(火)~平成12年3月26日(日)
6 塔婆型厨子(達麿堂蔵) |
中世の鋳物師と、16世紀後半に博多にやってきた太田氏や磯野氏がどのような関係だったのかは分かりません。しかし、江戸時代のはじめには太田氏や磯野氏の工房が、博多在来の鋳物師よりもはるかに大きな規模を持っていたのでしょう。慶長6年(1601)、福岡藩の初代藩主長政が英彦山神宮に奉納した3体の権現像(ごんげんぞう)の鋳造は、太田氏と磯野氏が請け負っています。
博多鋳物師の各氏は、それぞれ年行司(町役人)を努めるなど博多の町の有力者でした、その中でも磯野氏は、島原の乱を平定する際、大砲の弾を鋳造して藩へ協力した見返りとして、筑前国内で犂(すき)などの鉄製農具の製造を独占する権利を認めてもらうなど、経営の面では一番成功していました。まさに、博多鋳物師のリーダー的存在だったと言えます。しかし、もの作りという側面、それも、技の巧(たく)みさや姿の美しさが求められるようなときは、太田・山鹿氏が活躍していたようです。
8 磬 一面(妙行寺蔵 ) |
9 雪版 一面(妙行寺蔵 ) |
今、博多鋳物師の作と分かる鋳物のうち、最も数多く遺っているのは梵鐘(ぼんしょう)です。寺社の梵鐘づくりは江戸時代がもっとも盛んでした。博多鋳物師の太宰府天満宮や箱崎宮、博多の大寺院のほか、多くの寺社から注文を受けてたくさんの梵鐘を鋳造しました。しかし、博多鋳物師の梵鐘には、いっぷう変わった特徴があります。
日本の鐘すなわち和鐘は、ふつう帯をまわしたような文様を、縦に4本(縦帯(じゅうたい))、横に3本(上帯(じょうたい)・中帯(ちゅうたい)・下帯(かたい))つけます。そして、縦帯と中帯の交わるところに撞座(つきざ)(撞くときのポイント)を設けます。しかし、博多鋳物師の梵鐘には、縦帯と中帯がありません。上帯の下に、四角い区画を4ヵ所つくり、その中に乳(にゅう)(鐘の上部にある突起)を配しています。鐘身には大きな空間があり、そこに撞座のほか。様々な文様や梵字(ぼんじ)、銘文(めいぶん)を配することができます。こういった鐘のかたちは。朝鮮半島の鐘の特徴をとりいれたものです。
朝鮮鐘の様々な特徴ととりいれた鐘は、太田・山鹿氏の先祖である芦屋鋳物師が得意としていました。芦屋鋳物師は、伝統的なかたちの和鐘も作りましたが、博多鋳物師の作った鐘には、太田・山鹿氏のほかの鋳物師の作でも伝統的な和鐘は確認できません。縦帯と中帯をつくらない朝鮮鐘ふうの鐘は、いわば博多鋳物師の鐘の定番スタイルだったのでしょう。このスタイルをもたらし、かつ定着させたのは、芦屋鋳物師を先祖に持つ太田・山鹿氏であり、そして、ほかの鋳物師たちもそれに準じたと考えられます。
1 半鐘(成栄寺蔵) |
2 半鐘 (六通寺蔵) |
3 半鐘(妙楽寺蔵) |