平成12年1月5日(水)~3月12日(日)
首を奪れた戦士 隈・西小田遺跡(筑紫野市教育委員会) |
たたかいのはじまり
稲の栽培は、人々に豊かな実りをもたらしました。豊かな実りは、人口の増加を促し、地域社会の拡大とムラ同士の交流の機会を増大させました。
その結果、耕作地が重要な農耕社会では、土地や領域に対する意識が強くなり、土地や水を巡ってムラ同士の争いも始まりました。時には、蓄えられた収穫物を略奪するための戦いもあったようです。
この戦いの中から領域を拡大してまとまったムラが生まれ、ムラ内での階層化が進んでいきます。
副葬された武器 吉武高木遺跡 |
刻まれた戦士たち |
たたかいの武器
武器には、弓(ゆみ)や鏃(やじり)、剣(けん)、矛(ほこ)、戈(か)があり、盾や鎧が防具として発達しました。人々は、鎧に身をかため、手には盾や剣をもって家族やムラを守るために勇ましく戦ったことでしょう。
戦いで傷つき倒れた戦士の中には、首を取られた者や武器の先が折れて骨に突き刺さったままの者がいたようです。彼ら戦いの犠牲者の骨に残る生々しい傷跡は、戦いのすさまじさ、悲惨さをまのあたりに示しています。
豪族の居館の復原推定図 |
環濠集落から居館へ
弥生時代が終わり古墳時代になるとムラのまわりの環濠は消失します。ムラは攻撃の対象にはならなくなり、環濠はその役割を終えたようです。
そして環濠は、豪族の居館の防御施設として受け継がれてゆきました。前方後円墳に葬られる支配者の居館は、ムラから離れて独立し、依然として巨大な濠や柵で守られ、武装した兵士たちが守りをかためていたことでしょう。
(小林義彦)