平成12年2月8日(火)~4月2日(日)
最後の藩主黒田長知 |
明治4(1871)年の廃藩置県によって、慶長5(1600)年以来、約270年にわたって筑前を治めてきた藩主黒田家が福岡を去りました。福岡藩が太政官札(だじょうかんさつ)を偽造した「贋札(がんさつ)事件」が発覚したために、福岡県は藩知事が県知事にならなかった唯一の県となり、最後の藩主で藩知事だった黒田長知(くろだながとも)が去り、最初の県知事に有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任したのです。福岡城を居城としていた黒田家が去ってから、現在のように福岡城跡が大濠公園、舞鶴公園として整備されるまでの歴史をたどってみましょう。
明治20年頃の福岡城と掘 |
明治維新後の福岡城
廃藩置県のあと明治9(1876)年に天神町(現・中央区天神)に新庁舎が完成するまで、城内に福岡県庁がありました。その間、一時的に陸軍の中隊が派遣されたことがありましたが、兵営が設置されたのは、県庁が移転したあと同年9月のことでした。明治19年には、日清戦争(1894~95)や日露戦争(1904~05)にも出動した歩兵第24連隊が置かれました。以後、昭和20(1945)年の敗戦まで、福岡城内には陸軍の施設がありました。
ところで、福岡城の堀の名残は、現在、明治通り沿いと大濠(おおほり)公園の池、護国(ごこく)神社前の池にわずかに残っています。後に述べるように埋立が始まるまでは、現在の大濠公園の池(大堀)も2倍近い広さで、城のまわりをぐるりと囲む堀もありました。さらに、赤坂から大名、天神をへて那珂川(なかがわ)につながる堀もあり、那珂川側は佐賀堀(または肥前堀)、赤坂側は中堀と呼ばれていました。福岡城は、現在の様子から想像する以上に、広い堀に囲まれた城だったのです。