平成12年2月8日(火)~4月2日(日)
黒田奨学会の記念品の文庫 |
第3回国民体育大会のポスター |
佐賀堀と中堀の払い下げ問題
県庁が移転したあと、陸軍の施設が設置されたために、福岡城跡は陸軍省の管理する土地になりました。しかし、軍の施設とは関係のない堀は、払い下げが可能だったらしく、明治11(1878)年に福岡県は勧業試験地として佐賀堀と中堀の下げ渡しを申請しています。勧業試験地として使われるようになった堀には、蓮が植えられ、蓮根が栽培されていました。しかし、この勧業試験地は、明治20年に東中洲で開催された第5回九州沖縄8県連合共進会の会場建設の借金のために、第17国立銀行(現在の福岡銀行)へ13年の期限付きで無償貸与されました。
明治25(1892)年頃にこの2つの堀の払い下げをめぐる問題がもちあがりました。堀の蓮根の売り上げや堀の土手の借地料などの収益を、それぞれの目的のために使おうと払い下げを願い出た団体が2つあったのです。1つは、東公園の維持費にあてようとした愛園会、もう1つは、尋常中学修猷館(しゅうゆうかん)(現在の福岡県立修猷館高等学校)の経費の1部と光雲(てるも)神社の費用にあてようとした人々でした。
東公園は、明治9(1876)年10月に東松原公園として開園しました。その維持管理にあたっていたのが、博多の住民有志によって組織された愛園会でした。この愛園会が、公園の維持費を得るために、佐賀堀と中堀の払い下げを願い出たのです。
また、修猷館と光雲神社のために動き出した人々は、黒田家に接触し、黒田家を通して払い下げを願い出ました。これは、岡山県で、池田家が病院用地として土地の払い下げを申請した件が許可されるなど、旧藩主家が申請すると許可が下りやすいという雰囲気があったためのようです。修猷館は江戸時代の藩校の流れをくみ、また、光雲神社は初代藩主黒田長政(ながまさ)とその父の黒田如水(じょすい)をまつっているという点で、黒田家と縁があり、黒田家へ申請を依頼したようです。
佐賀堀・中堀は、県会での討議をへて、黒田家に下げ渡されました。そして、堀からの収益は、明治33(1900)年に修猷館の経費が完全に県費でまかなわれるようになるまで、その経費の一部にあてられました。その後は、九州帝国大学(現在の九州大学)設置のための費用にあてられたり、黒田家が設立した奨学基金(黒田奨学会)のもとになりました。
堀の埋立
福岡市は、福岡城の堀を埋め立てながら、市街地を形作ってきまし た。明治43(1910)年の第13回九州沖縄8県連合共進会の際には、佐賀堀が埋め立てられ、まずは官庁街として、後には九州一の商業地 域として天神が発展する基礎をつくりました。また、中堀も大正後半には埋め立てられ、市街地を南北に隔てていた堀は、姿を消したのでした。
昭和2(1927)年の東亜勧業博覧会の際には、大堀を約半分埋め立 てて会場をつくり、博覧会閉会後は、会場跡を整備して昭和4年に大濠公園として開園しました。開園と同時に、大濠公園は福岡名所の1つに数 えられるようになり、絵はがきなどにも数多く取り上げられています。
明治時代以降連隊が置かれていた福岡城跡も、戦後、様変わりしまし た。陸軍の病院は、厚生省に移管されて国立福岡病院(のちに国立福岡中央病院、1994年に国立病院九州医療センターとなって地行浜に 移転)となり、昭和23(1948)年の第3回国民体育大会の会場として平和台陸上競技場が建設され、さらに、平和台球場の設置、舞鶴公 園の整備、昭和54年には福岡市美術館が開館しました。
明治維新後の福岡城の歴史をたどってみると、市街地が拡がってい くにつれて堀が埋め立てられたり、昭和20(1945)年までは連隊が置かれていた城内が運動公園として整備されたりと、福岡市の近代史 の縮図が見えてくるようです。「城」から「城跡」になってからも、福岡城は福岡市の歴史にかかわっていたのです。
(太田暁 子)