平成12年4月4日(火)~5月28日(日)
黒田忠之(部分) |
寛永(かんえい)14(1637)~15(1638)年におこった島原(しまばら)の乱は、キリシタン(キリスト教徒)の農民が中心となって起こした大一揆(だいいっき)でした。この一揆が幕府(ばくふ)・諸大名(しょだいみょう)を動揺させ、それからの幕府の政策に大きな影響を与えました。この後、キリスト教布教の原因とされるポルトガル船の来航を禁止し、従来からあった対外貿易の制限、キリスト教禁止の政策は更に強められ、「鎖国(さこく)」の完成へと向かうことになったのです。このような政治・社会の中で福岡藩と福岡の人々はどのように関わっていたのでしょうか。
まず、寛永17(1640)年にマカオからポルトガル船が通商の再開を求めて長崎に来航した時は、貿易再開の意思のない幕府はキリシタンの乗組員を処刑し、船を焼き払いました。そしてこの報復に備え、九州各藩の津々浦々に遠見番所(とおみばんしょ)を設けさせました。この時の福岡藩主は2代黒田忠之(くろだただゆき)(1602~54)で、福岡藩領内では姫島(ひめしま)・西浦(にしのうら)・相島(あいのしま)・大島(おおしま)・岩屋(いわや)の5ヵ所に遠見番所の設置を命ぜられました。福岡藩は独自に沖(おき)ノ島(しま)・白島(しらしま)・小呂島(おろのしま)に毎日番船を巡回させ、幕藩一体となって異国船の来航に備えたのでした。更に、翌寛永18(1641)年は忠之が江戸へ参勤する年でしたが、長崎港の警備の必要性から、参勤(さんきん)を免除されました。この長崎港の警備は翌年佐賀藩が命ぜられ、ここに福岡・佐賀両藩による長崎警備の交代勤番制が始まりました。警備の年は藩士を長崎に派遣し異国船の警備や、治安の維持に努めました。又藩主自らも度々長崎に見廻りに行き、異国船の来航に備えたのでした。
このような中で、寛永20(1643)年に福岡藩領内の大島で、異国船が発見されました。乗組員は日本人数名の外、日本刀、日本の服を身につけた異国人で、キリスト教の布教のため日本に潜入したのでした。福岡藩では、さっそく彼らを捕らえ長崎に護送しました。この藩の速やかな対処を賞した老中奉書(ろうじゅうほうしょ)をもって、上使中根壱岐守正盛(じょうしなかねいきのかみまさもり)がわざわざ筑前へ下ってきました。その上、上使中根自身にもこのことを賞する書状を認(したた)めさせる念の入れようで、このことからキリシタン摘発がいかに重大なことであったかが窺えます。
遠賀郡海岸形相図(岩戸の遠見番所) |
黒田続家譜(寛永18年に出された、福岡藩に長崎警備を命じる老中奉書) |
長崎諸役所古図(出島図) |