平成12年4月4日(火)~5月28日(日)
そして正保(しょうほう)4(1647)年に、今度はポルトガル本国から国王の使節を乗せた2艘の船が長崎に来航しました。ポルトガルがスペインから独立したことを伝え、改めて通商の再開を求めるものでした。長崎奉行はすぐにこのことを江戸に注進し、九州諸大名を長崎に集め、いつ戦闘が起きても対応できる体裁を整えました。長崎警備当番であった黒田忠之も軍勢を率いて長崎へ行きました。「黒田続家譜(くろだぞくかふ)」によると福岡藩は1番備(そなえ)で、総人数1万1730人、船数300艘で待機したとのことです。また非番である佐賀藩や加番(かばん)を命ぜられていた熊本藩も出動し、ほかの諸大名の軍勢を合わせると総勢5万、船700艘のものものしい陣構えであったとのことです。そして、江戸からの回答が来るまで船を湾外に出させないよう長崎港を封鎖しました。約1ヶ月後、江戸より3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の通商再開拒否の返事が届くと、ポルトガル船は解答書と水、米など航海に必要な食料を受け取って出港していきました。
しかしこの後、長崎警備はさらに強化、恒久化の体制がとられるようになりました。幕府は慶安元(1648)年福岡、佐賀両藩主が非番の年でも、オランダ船が帰帆する9月までは在国させる長崎警備加番の制度を設けました。そして長崎と密に連絡を取り、いざというときに備えさせ、オランダ船帰帆の後、江戸へ参勤させるようにしました。また藩も異国船警備の恒久的必要性から警備に行くたびに藩士が詰めるため、その場限りの小屋を造っていたのを、恒久的に使える小屋に造り直しました。寛文11(1671)年には長崎に詰める藩士も4交代制で約千人の藩士を長崎に詰めるようにしました。
また幕府はキリスト教が外から入り込むのを防ぐだけでなく、国内のキリシタンの弾圧も強化しました。その結果、キリシタンが一掃されたと考えられていた島原の乱から10余年たった、明暦(めいれき)・万治(まんじ)・寛文(かんぶん)期になってまだキリシタンが摘発されました。この後各藩に専任の宗門改役の設置を命じ、その制度化が進みました。
本展示では、この幕府の「鎖国」体制強化の中で、福岡藩の関わりを本館所蔵の古文書や記録を中心に紹介します。
(楠田 恵)
ポルトガル船入港時の長崎警備図 |
黒田家軍船之図(部分) |