平成12年5月30日(火)~7月23日(日)
福岡図巻(櫛田神社と山笠) |
博多祇園山笠は、古代、中世から日本有数の商工業、港湾都市だった博多に現在も続いている、夏を迎える祭礼で
す。
とくに江戸時代から明治時代の初めにかけては、博多の町の人々は、現在の飾り山に似た高さ16メートルもある大きな山(舁山(かきやま))を舁いて、町筋を練り歩いたのです。今回の展示では、この山笠の勇壮で華やかな姿が描かれた江戸時代の絵画を展示します。
さて当時の博多でこれらの山笠を見たり聞いたり、舁(か)いたりしたのは、どのような人々だったのでしょうか。本館の収蔵品の中から、当時の博多の様々な人々の姿や生活、暮らしが描かれた、風景画、肖像(しょうぞう)画、版画、挿(そう)画もあわせて展示し、華やかな都市祭礼の文化の背景にもせまってみます。
博多の町並みに見える人々
博多は天正15(1587)年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)により復興され、その範囲の十町(ちょう)(約1.1km)四方が道路で整然と区画された近世の都市として生まれ変わりました。江戸時代中頃の「福岡図巻(ふくおかずかん)」の中には、博多の町を空から見た部分(鳥瞰図(ちょうかんず))があります。福岡藩主黒田氏の城下町として慶長(けいちょう)6(1601)年から建設がはじまった福岡と、中州の東西の中島(なかしま)橋で結ばれた様子がよくわかります。また櫛田(くしだ)神社の近くには、おりしも6本の山笠が立っています。江戸時代の終わりに近い文政(ぶんせい)四(1821)年に完成した奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)の「筑前国名所図会(ちくぜんのくにめいしょずえ)」には、博多全体の鳥瞰図が数ページにわたり載せられています。また有名な名所(めいしょ)や旧跡(きゅうせき)のある町筋や、特に商工業で賑わう町筋を、さらに近づいて見下ろした部分がいくつもあります。これらの鳥瞰図には、商用や日常の暮らし、あるいは行楽などで博多の町並みを行き交う様々な人々が見られ、博多の都市としての大きさが窺えます。この他、明治10年代のものですが、博多の豪商たちの大きな店先と、その繁盛する様子を描いた図が各種あり、江戸時代の終わりから明治の文明開化の時代に移っていく様子とあわせて、人々の働くが姿がしのばれます。
近世博多町人の肖像と由緒
大賀如心像 |
嶋井久左衛門像 |
博多町人の中には、生前の姿や事蹟(じせき)をしのぶために描かれた肖像が残っている人もいます。
多くは博多の中でも、中世や近世初期以来の博多町人の伝統をもった家々ですが、のちには新興の豪商や大店の人々もいました。これら博多の町人の由緒や盛衰は、明和(めいわ)2年に書かれた「石城志(せきじょうし)」の中に簡単な伝記が載せられています。
このうち博多に2家ある大賀(おおが)氏は、黒田氏が福岡藩を開いた当初から藩に仕えた御用商人で、博多町人の筆頭ともされ、江戸時代の中頃から町人が褒賞(ほうしょう)等で藩から格式(かくしき)を与えられる時には、「大賀並(なみ)、大賀次(つぎ)」といった地位が与えられました。また、博多の中に大きな屋敷を与えられ、藩にとっての重要な来客などの宿泊等について世話をしています。江戸時代の中期からは、博多から運びだされる米などの穀物(こくもつ)の運上銀(うんじょうぎん)(税)徴収・管理などにあたり、藩の都市政策の上でも活躍しています。
博多町人のうちでも嶋井(しまい)氏は神屋(かみや)氏と並んで中世以来、商業活動や町の運営に 中心的な役割を果たした町人です。鎖国(さこく)で対外交易の道は閉ざされてしまいましたが、やはり江戸時代の中頃から、福岡藩の都市政策を担って、日用(ひよう)(主に交通や土木、建設に一日単位の賃銀で働く人々)の統制や保護、大賀氏と同じく穀物等の運上銀徴収、窮民(きゅうみん)救済などに力を尽くしました。また町民のために何度も献金をおこない、藩から褒賞を受けました。
なかには博多の町の年行司(ねんぎょうじ)(町政運営の住民側の最高責任者)やその相談役に任命され、町政に力を尽くした当主もいました。
この博多の年行司は、藩から高い格式が与えられ、その姿は先の「筑前名所図会」のなかで、博多町人の代表として正月の松囃子(まつばやし)の祭礼に、福岡城の御館に出向く姿が描かれています。