平成12年6月6日(火)~8月6日(日)
左:刀 吉岡一文字 右:刀 名物城井兼光 |
大名の表道具
大名家は禄高(ろくだか)、格式の違い、成立した時代などによって、その質や量は異なるが、様々な道具を備えていた。それは大きく表道具と裏道具の2つに分けられる。
表道具は武家にとってなくてはならない刀剣や甲冑、馬具などの武器武具類と、公式行事の際に必要な広間の床の間飾りや茶道具、能道具そして教養を高めるための書籍類などである。一方、裏道具は大名やその婦女子が私的に用いた遊戯具や宗教行事に使った道具等である。
今展では黒田家に伝来した刀と能面を展示した。刀は大名の表道具の筆頭であり、武勲によって地位を築きあげてきた黒田家にとって、特に藩祖の黒田孝高(よしたか)(如水)とその子の初代藩主長政ゆかりの刀は家宝中の家宝であった。それは黒田家の『御当家御重宝故実』に記録されていることからも理解できる。
また、能は豊臣秀吉がそうであったように、江戸幕府もまた勅使接待などの公式儀礼に能を採用したことから盛んに行われた。さらに他の大名もこれにならって、公式接待の饗応の場には能を催すことになった。『黒田家譜』に、長政が江戸で観世大夫黒雪斎暮閑(かんぜたゆうこくせつさいほかん)に、能の歌詞である謡(うたい)を習い、黒雪にその出来ばえをほめられたので家臣に謡い聞かせたとある。しかし、この自慢は家臣に諫められたが、また、喜多流の祖である北七大夫の能界復帰にあたっては徳川秀忠に働きかけたりもしている。それに、長政が黒雪に節をつけてもらった、黒雪自筆の元和4
年(1618)の奥書がある『謡本』(重要美術品・福岡市美術館蔵)も伝来している。
いざというときのために、刀等の武器武具を常に備えるのは、武家として当然であるが、同時に泰平の世では文治政策のためにも、能道具を常備するとともに、能に関する知識や謡などの教養をつむことも大名のたしなみであった。
名物刀のお話
1.国宝 刀 名物へし切長谷部
『御当家御重宝故実』によると、織田信長の怒りをかった茶坊主の観内(かんない)が膳棚の下に逃げ込んだところを、信長がこの刀を差し込んで圧(へ)し切ったのでこの名がある。『黒田家譜』に、小寺政職(こでらまさもと)の使いで岐阜(ぎふ)城の信長に謁した黒田孝
高が、中国の毛利出兵のときは主人政職も加担すると申し出たので、信長から「御太刀(たち)一腰賜りて」帰国したとある。この太刀がへし切長谷部のことであり、本来太刀だったのを刀に磨(す)りあげたことがわかる。のちに本阿弥光徳(ほんあみこうとく)がこの刀の作者を山城(京都)の刀工長谷部国重と鑑定し、中心(なかご)に「長谷部国重本阿(花押)」「黒田筑前守」と象嵌(ぞうがん)した。なお、拵(こしらえ)は「安宅切(あたけぎり)」の拵の写し、鍔(つば)は信国作である。
2.国宝 太刀 名物日光一文字
もともとは日光の権現社(ごんげんしゃ)にあったのを北条早雲(ほうじょうそううん)が申し受け、以後北条家に伝来していたのを、豊臣秀吉の小田原攻め(天正18年・1590)のときに仲介の労をとった黒田如水に北条氏が贈ったもの。古来有名な太刀。
3.重要美術品 刀 二字国俊(にじくにとし)
黒田長政がたびたび戦場に帯びて行った愛用の刀。
4.刀 吉岡一文字
備前(岡山)の吉岡は古来名刀の産地で知られている。
5.刀 行光
慶安元年(1648)に、3代福岡藩主黒田光之が3代将軍徳川家光から拝領したもの。
6.刀 名物城井兼光(きいかねみつ)
『御当家御重宝故実』によれば、天正15年(1587)、豊臣秀吉は九州において勢力をのばしていた島津義久と戦うために九州に出兵し、これを降伏させた。秀吉は博多に入り、箱崎にて論功行賞を行い、黒田孝高には豊前(大分)6郡を与えた。ところが、豊前(福岡県仲津郡)城井谷を支配していた宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)は如水を領主と認めず、如水の居城中津城にも出仕しなかった。そしてついに如水が肥後に出かけた隙に、 留守番でいた長政のもとへ手勢を引き連れて現れた。長政はこれを迎えて鎮房をこの刀にて殺害し、さらに軍勢を率いて城井谷を攻め宇都宮家を滅ぼした。備前(岡山)の兼光が鍛えたこの刀は以後「城井兼光」とよばれ、大切物(おおきれもの)として知られた。のちに、この刀は長政が三男で初代秋月藩主の長興へ与えたが、その子長重が3代福岡藩主の光之へ返還している。