平成12年7月25日(火)~9月24日(日)
まりつきをしている子供 |
雪だるまをつくっている子供たち |
2.遊ぶ子供たち
子供と遊びはきってもきれない関係にあります。子供は、いつでもどこでも楽しく遊ぶことを見つけだす名人といえましょう。福岡藩の歌人で勤皇(きんのう)の志士(しし)である野村望東尼(のむらぼうとうに)が描いた「童戯(どうぎ)の図画(ずが)」をみると、当時の様々な子供の遊びを知ることができます。まりつきをしている子供、獅子舞(ししま)いをみている子供、たこあげ、雪だるまつくりをしている子供などなど...。舞台は戸外が多く、子供たちは外に遊びを求めていたことがわかります。
3.学ぶ子供たち
黒田万千代が長浜四郎右衛門に 手の痛みはどうかと気遣っている書状 黒田万千代書状」 |
江戸時代、義務教育というものはありませんでした。その中で、教育を受けることができた子供たちも、皆同じことを学んだわけではありませんでした。大名の子供は教育係(傳役(もりやく))の指導のもと、文武の鍛錬に励まなくてはいけませんでした。福岡3代藩主黒田光之(くろだみつゆき)の嫡子黒田万千代(くろだまんちよ)(後の綱之(つなゆき))が、その教育係である長浜四郎右衛門(ながはましろううえもん)にあてた書状が残されていますが、それをみると、万千代の字が段々上手になっていく様子が知られ、またその内容から長浜四郎右衛門との細やかな交流が知られます。江戸時代中期以降になると、藩士の子供を教育するための藩校や、庶民の子供を教育する寺子屋が多く設けられ、子供たちはここで、手習(てならい)(習字)を中心に学ぶことができるようになりました。手習の目的は字を上手に書くことであることはいうまでもありませんが、これをもとに文章を読み、考えさせることも大切な目的でした。ここで子供たちは将来就(つ)くべき職業に必要な知識を身につけました。
老父母の代わりに魚売りをする
孝子八十吉「筑紫遺愛集」(部分) |
4.社会の一員としての子供たち
江戸時代の子供たちは、将来の日本を担(にな)う国の宝、といとおしまれてきたものばかりではありませんでした。貧困の中にやむなく捨てられた子供もいました。江戸時代後期の、福岡藩の商人加瀬(かせ)家の記録を見ると、ここで多くの捨て子を拾い、育てたことが記されています。そうでなくても、多くの者は貧しさ故に生活するために、幼い頃より親の手足となって働くことを覚えなければなりませんでした。このような中で、江戸時代をたくましく生き抜いていった子供たちの姿が「筑紫遺愛集(つくしいあいしゅう)」「筑前孝子良民伝(ちくぜんこうしりょうみんでん)」に描かれています。
(楠田 恵)