平成12年8月1日(火)~10月29日(日)
有田遺跡(ありたいせき)の前漢鏡(ぜんかんきょう) |
福岡市博物館は国宝「金印」など、「対外交流」をテーマとして常設展示を構成していますが、すでに開館し
て今年で10年を迎えました。考古(こうこ)資料に限って言えば、この間、市域内の発掘調査によって対外交流に関する新たな資料が出土し、またそれについての研究も着実に進みつつあります。
そこで今回の展示では、ここ10年あまりの間に新しく福岡市内から出土した、中国大陸や朝鮮半島といった「国外」から搬入された「対外交流」に関する遺物を中心に展示し、日本の対外交流史上において福岡が果たした役割について改めて考えてみようと企画しました。
一口に「対外交流関係遺物」といっても、質・量ともに膨大(ぼうだい)なものがありますので、今回は特に弥生(やよい)~古墳時代(こふんじだい)の資料に限って展示します。
土器に見る対外交流1 無文土器(むもんどき)
土器は粘土をこねて作るため、時期や地域によってさまざまなものがあり、編年(へんねん)や文化、交易、集団間交渉などを追及する考古学研究の基本資料となります。最初の土器は野焼(のや)きによる低い火度で焼いた軟質(なんしつ)のもので、やがて窯(かま)を用いて高い火度で焼いた陶質(とうしつ)の土器が出現します。
縄文(じょうもん)土器にも朝鮮半島の影響を受けたものが見られますが、弥生(やよい)時代には稲作(いなさく)技術に伴って半島南部の土器製作技術が日本に流入し、新たに「壺(つぼ)」が作られるようになります。また、「無文土器」と呼ばれる半島の土器やそれをまねた土器が、半島と北部九州を結ぶルート上に位置する壱岐(いき)・対馬(つしま)、糸島(いとしま)などの地域や、北部九州の内陸部の限られた範囲から集中して出土するようになります。
土器に見る対外交流2 瓦質土器(がしつどき)
西新町遺跡(にしじんまちいせき)の朝鮮半島系土器 |
朝鮮半島では、新石器時代の中国で発達した叩(たた)き成形、ロクロによる成整形、窯を用いて土器を焼く技術などが伝播して、紀元前一世紀頃に「瓦質土器」が登場します。一方、これとは別に日常土器として、無文土器の系譜を引く赤褐色の土器も引き続き生産されました。
早良区(さわらく)の西新町遺跡(にしじんまちいせき)では、これまでに250棟をこえる竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)が見つかっており、古墳(こふん)時代初め頃のものと見られる朝鮮半島系の土器が多数出土しています。これらは忠清道(チュンチョンド)・全羅道(チョルラド)などの半島西南部地域からの搬入品とみられます。
陶質(とうしつ)土器は、瓦質土器より更に高い火度で堅く焼いた土器で、3世紀の終わりから4世紀前半頃に半島南部に出現したとみられ、主に墳墓に副葬されました。