平成12年8月1日(火)~10月29日(日)
土器に見る対外交流3 陶質土器(とうしつどき)
金武古墳群(かなたけこふんぐん)の統一新羅系土器 |
その具体的な故郷はなお特定できないものの、日本の須恵器(すえき)のルーツが朝鮮半島南部地域の陶質土器にあることは疑いがありません。これとは別に、加耶(かや)や百済(くだら)の陶質土器そのものが日本で出土することがあります。須恵器生産以前であれば確実に半島産と言えますが、須恵器生産が開始された以降の場合には、確実に陶質土器と認定できるものと、陶質土器に似ているけれども日本で焼かれた可能性が高いものとがあります。
陶質土器は、新羅(しらぎ)が半島南部を軍事的に掌握していくにつれて変容し、6世紀後半頃には印花文陶器(いんかもんとうき)(統一新羅系土器(とういつしらぎけいどき))が成立したとみられています。これらの土器は日本には7世紀前半頃に流入し、北部九州では主に墳墓(ふんぼ)に副葬(ふくそう)されました。
輸入された青銅器(せいどうき)
初期の青銅器は、武器類を中心としたものが朝鮮半島から我が国にもたらされました。紀元前108年に前漢(ぜんかん)が半島に侵攻し、今の平壌(ピョンヤン)付近に楽浪郡(らくろうぐん)を設置すると、ここを通じて中国系の青銅器が多量に流入し始めます。その代表格が中国鏡(ちゅうごくきょう)で、紀元前1世紀の後半頃から、鏡(かがみ)などの青銅器をはじめ、素環頭鉄刀(そかんとうてっとう)などの鉄製武器や、ガラス製品などの中国系文物(ぶんぶつ)が持ち込まれました。
後漢(ごかん)に入ると、中国や日本国内が政治的に混乱して流入が中絶したようで、中国鏡を割ったものや、朝鮮半島や日本国内で製作された小形鏡などが代替品として用いられるようになります。
弥生人(やよいじん)は青銅鏡を好み、この傾向は古墳(こふん)時代にも引き継がれ、権威の象徴として首長クラスの墓に盛んに副葬(ふくそう)されます。
西新町遺跡の板状鉄製品 |
鉄器(てっき)とその製作
魏書(ぎしょ)には、弁韓(べんかん)(後の加耶(かや)諸国)や辰韓(しんかん)(新羅(しらぎ))は「豊穣な土地に豊かな鉄資源を持つ国で、帯方郡(たいほうぐん)・楽浪郡(らくろうぐん)をはじめ日本列島にまで鉄を供給した」と記載されており、鉄資源の供給地として我が国にとって極めて重要な位置を占めていました。日本では遅くとも六世紀には鉄の生産が開始されますが、それ以前においては弁辰(べんしん)から板状鉄製品や鉄ていなどの鉄素材を輸入し、一部は中国大陸の製鉄集団から交易によって入手したとみられています。
我が国では、まず朝鮮半島や中国からの製品の輸入によって初めて鉄がもたらされ、砥石を使ってこれらの破損品を再生することから鉄器の製作が始まりました。その後、鉄素材を加工する鍛冶(かじ)を行なうようになったとみられ、近年市内でもこれを証明する資料が出土しています。
その他の対外交流関係遺物
土器(どき)、青銅器(せいどうき)、鉄器(てっき)の他にも、さまざまな品物が海を越えて運び込まれました。
ガラス製品や銀製品などは、中国大陸もしくは朝鮮半島を経由して搬入されたものと見られます。また、辰砂(しんしゃ)と呼ばれる硫化第二水銀(りゅうかだいにすいぎん)の鉱物は、磨(す)り潰(つぶ)して赤色顔料(がんりょう)として用いますが、博多区比恵遺跡(はかたくひえいせき)の出土品は中国産の可能性があります。
さらに、南の琉球列島(りゅうきゅうれっとう)からは珊瑚礁(さんごしょう)域に棲息(せいそく)する南海産(なんかいさん)の貝を使用して作る腕輪(うでわ)や貝玉(かいだま)などが、「貝(かい)の道(みち)」と呼ばれる交易ルートを通じてもたらされました。
その他、人の手によって運ばれたものではありませんが、フィリピンなどの南方から黒潮(くろしお)にのって運ばれた海岸漂着物(ひょうちゃくぶつ)であるココヤシの実を加工した容器も出土しています。
(吉武 学)