平成12年9月26日(火)~11月26日(日)
1、黒田長政像
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今年、平成12年は、関ヶ原(せきがはら)合戦の勝利の功績で、黒田長政(くろだながまさ)が徳川家康(とくがわいえやす)から筑前(ちくぜん)一国を与えられ初代福岡藩主となってから、400年をむかえます。しかし徳川幕府の力が安定したのが3代将軍徳川家光(いえみつ)の頃であるように、福岡藩も外様大名として、その間の厳しい幕府と諸藩の軍事・政治的な動きに巻き込まれ、藩内の政治的試練を乗り越え、藩政をつくり上げていかねばなりませんでした。この展示では、本館に収蔵している当時の古文書や記録をもとに、幕府と諸藩との関わりを中心にして、この時期の福岡藩の歴史を紹介します。
慶長~元和期の幕閣・諸大名と初代長政
慶長(けいちょう)5(1600)年に豊前中津(ぶぜんなかつ)城から 筑前に入った長政は、翌年から福岡城の築城をはじめ約7年がかりで完成させました。その間、佐賀の鍋嶋(なべしま)氏などが肥前(ひぜん)堀建設で力を貸しました。また長政も佐賀を訪れています。また筑前の一部を領していた唐津の寺沢(てらさわ)氏もよく福岡で、長政との茶会に臨んだりしました。その後、幕府の大名統制は厳しくなり、幕府内でも、長政の子忠之の婚約相手の祖父だった、大久保忠隣(おおくぼただちか)が失脚する事件もおきました。 そして大坂の陣では、長政は豊臣恩顧(おんこ)の大名の生き残りとして、幕府に警戒されますが、家康側近の本多正信(ほんだまさのぶ)を通じ、幕府に忠誠を示しています。さらに家康死後には2代将軍秀忠側近で、正信の子本多正純(ほんだまさずみ)や、崇伝(すうでん)といった幕府有力者をたよって、福岡藩の存続を図っています。 この時期大きな政治上の事件では、有力外様(とざま)の福島(ふくしま)氏が幕命違反で取り潰され、九州の大名でも筑後(ちくご)の田中(たなか)氏が後継ぎがないとして改易され、その後に柳川(やながわ)の立花(たちはな)氏、久留米(くるめ)の有馬(ありま)氏が移されてきました。また本多正純自身も将軍の怒りをかって改易されますが、長政は次の幕閣有力者へ繋がりをもとめて、江戸での政治活動を続けました。
寛永期の幕閣・諸大名と2代忠之
長政は元和(げんな)9(1623)年に京都で亡く なり、2代忠之(ただゆき)の時代となります。長政は忠之の弟の孝政(よしまさ)(長興(ながおき))、高政(たかまさ)にそれぞれ、秋月(あきづき)、東連寺(とうれんじ)で支藩(しはん)を興させます。
しかし秋月藩は本藩の忠之との関係がよ くなく、寛永(かんえい)3(1626)年,将軍の上洛に従い認められることで、 地位安定を果たしています。
忠之時代で九州で大きな事件は、まず肥後(ひご)の加藤忠広(かとうただひろ)が改易されたことです。忠広は加藤清正の子ですが、家中が対立し、それをまとめる事ができず、将軍の怒りをかっていました。その後には、小倉に移っていた細川(ほそかわ)氏が、将軍の覚えもめでたく、肥後54万石の大(だい)大名として移されてきました。この時期の幕閣の有力者は土井利勝(どいとしかつ)、酒井忠勝(さかいただかつ)などの年寄(としより)衆でした。一方、忠之も、家老と対立し黒田騒動を起こしており、その存続が危ぶまれました。しかし、父の代から広く幕閣に接近し、行動の指針をえていた忠之は、彼らの後ろ楯もあり、何とか取り潰しを免れました。
その後の福岡藩は、島原の陣や長崎警備(けいび)で将軍、幕府への忠誠を示す事に勤めます。松平信綱(まつだいらのぶつな)などを含む確立した老中制度とは別に、大老となった小浜(おはま)藩主の酒井忠勝などに内々で様々な指示を仰ぎ、行動をきめています。姻戚(いんせき)関係では、忠之の子で3代藩主となる光之が、幕府譜代(ふだい)の名門で、九州の抑えとして小倉へ入ってきた小笠原(おがさわら)氏との婚姻を調えました。その一方で、古くからの寺沢氏などは島原の乱で領地を減らされ、その後改易になり、島原半島にも譜代の松平氏が入部するなど、北部九州の大名の勢力も変わっていったのです。
18、黒田長政書状 |
25、黒田高政書状 |