平成12年10月3日(火)~11月12日(日)
今回の展示では、主に大正時代以降に国内で開催された博覧会を紹介します。「博覧会」というイベントが明治時代に輸入されてから、各地で博覧会や共進会が開催されました。勿論、博覧会の内容にも、それぞれの時代の特徴や雰囲気があらわれます。
電気大博覧会の会場図(大正15年、大阪で開催) |
大正から昭和初期の博覧会
大正から昭和初期にかけての時期は、誰もが「文化生活」に憧れた時代でした。機能的に設計されて水道とガスが完備された台所と、玄関の脇にある洋風の応接室に象徴される「文化住宅」に、人々は羨望(せんぼう)のまなざしを向けました。明治時代から和洋折衷(わようせっちゅう)住宅はありましたが、サラリーマン家庭でも頑張れば手に入れることができるモデルとして、文化住宅を提案したのは、大正11(1922)年に東京・上野で開催された平和記念東京博覧会と大阪・箕面(みのお)で開催された住宅改造博覧会でした。また、大正時代には、電気をテーマにした博覧会も開かれました。家庭用の電灯が普及し始めた頃でもあり、電気は身近な科学技術の一つとして、人々の注目を集めたのでしょう。
昭和初期には、鹿児島線・長崎線・日豊線・筑豊線という四つの九州の幹線が確立しました。このように鉄道網が発達すると、人々の移動距離は格段に長くなり、移動そのものも楽になります。そこで、観光・旅行ブームが到来します。ポケットサイズに折りたためる鳥瞰図(ちょうかんず)が各地でつくられ、観光客向けに販売されたのもこの頃のことです。国鉄や私鉄も頻繁に観光キャンペーンをはっていますが、観光をテーマにした博覧会も開催されました。
戦時期の博覧会
戦時期には、「満州」「台湾」「朝鮮」など当時の日本が勢力下においていた地域の物産などを紹介するものが目立ちます。いわゆる博覧会の植民地展示館は、明治36(1903)年に大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の台湾館が最初だといわれていますが、昭和に入ってから特に目立つようになりました。台湾博覧会、朝鮮博覧会、満蒙博覧会など、地域を限定したものは勿論、その他の博覧会でも、満州館、台湾館、朝鮮館などのパビリオンを設けているものが少なくありません。 銃後の戦意を高揚させるような博覧会もたくさんありました。「国防館」や「海軍館」というように戦争や軍隊を連想させるパビリオンが立ち並ぶことは、珍しくありません。しかし、現代からみると戦時色を強く感じる博覧会も、当時の人々にとっては、ごく当たり前のものだったのかもしれません
日本万国博覧会・前売券発売 (金鵄が描かれた部分) |
ところで、昭和15(1940)年は紀元2600年にあたり、これを記念して万国博覧会を日本で開催するという計画がありました。紀元とは、日本書紀の記述をもとに、初代天皇とされている神武(じんむ)天皇の即位の年を元年とする年の数え方で、戦前の日本では公式にも使われいて、皇紀(こうき)ともいいました。日本で万博を開催するというアイディアは、この時初めて出たものではありません。明治38(1905)年に日露戦争に日本が勝利したとき、その戦勝を祝して万博を開催しようとする意見があったのです。財政的な理由から、万博よりは規模を縮小した「日本大博覧会」として、開催準備は進みましたが、結局、これも中止になっていました。そして、昭和15年のこの万博も、昭和12年に日中戦争がはじまり、「延期」することとなりました。同じく紀元2600年を記念して誘致が計画されていたオリンピックが「中止」だったのに対し、万博は、前売り券の発売が既に始まっていたために「延期」となったようです。この万博の前売り券の発売を伝えるポスターには、金鵄(きんし)が描かれています。これは、神武天皇東征神話の金色の鵄(とび)伝説にちなむものです。このことからも、「日本万国博覧会」と同じ名称を使ってはいても、昭和四五年に大阪で開催された万博とは、その趣が全く違うものであったことが想像できます。