平成13年5月15日(火)~平成13年7月8日(日)
今年もまた6月19日がやってきます。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年6月19日夜半から20日にかけて、福岡市はアメリカ軍の焼夷弾攻撃で、大きな被害を受けました。「福岡大空襲」です。戦後福岡市ではこの日を「福岡大空襲の日」として、各地で慰霊や平和を願う行事が行われます。当館でも平成3年より、6月19日の前後に戦時資料を展示する「戦争とわたしたちのくらし」展を開催してきました。
10回目となる今回は、昭和58年度から平成12年度までの間に、当館にご寄贈いただいた「15年戦争期」(昭和6年の満州事変(まんしゅうじへん)から昭和20年の敗戦まで)に関する資料の中から、主なものを展示します。
会期を前半と後半に分け、前期(5月15日〈火〉~6月10日〈日〉)では軍人や兵士として日本軍に入隊し、戦争に参加した人々の関係資料を展示します。寄贈者自身が従軍中に使用した品や、戦死した家族の遺品をご寄贈いただいたものもあります。
後期(6月12日〈火〉~7月8日〈日〉)では、戦時下の市民生活に関する資料を展示します。15年にわたる長い間に、日常生活が少しずつ戦時色を強めていった様子を知ることができるでしょう。
この展示が、みなさんが戦争や平和について考えてみるきっかけのひとつになればと思っています。
■入隊する人を送る
寄せ書(半田澄子氏寄贈) |
戦前の日本では徴兵制(ちょうへいせい)がとられていました。戦争時でなくても満20歳の男子は徴兵検査を受け、兵士に適すると判定された場合「現役兵(げんえきへい)」として陸軍は2年間、海軍は3年間兵役につくことになっていましたが、多数の場合は抽選で兵役に服しました。また除隊後は予備役(よびえき)・後備役(こうびえき)などとして、満45歳まで戦時に徴集・召集される可能性がありました。戦争が長期化し、人員が不足すると、平時よりも多くの男子が徴集されました。また20歳未満であっても自分から希望して兵役につく「志願兵」もいました。徴集され入隊することはめでたいこととされ、「祝出征」などと書かれた日の丸や幟(のぼり)で、家族や友人、近所の人々から見送られました。
■陸軍と海軍
戦前の日本の軍隊には、「陸軍」または「海軍」という一個の機関はありませんでした。陸軍には陸軍省・参謀本部(さんぼうほんぶ)などの役所と軍・師団などの「陸軍部隊」と教育機関などが、海軍には海軍省・軍令部(ぐんれいぶ)などの役所と鎮守府・艦隊などの「海軍部隊」、教育機関などがあり、それぞれが天皇に「直隷(ちょくれい)」していると考えられていました。陸軍と海軍には、兵役によって軍に所属する「兵」と、軍人であることを職業とする将校などの「武官」がいました。陸軍と海軍は、設置された明治初期から原則として、お互いに独立した機関だったので、武官の育成も、陸軍では陸軍士官学校(りくぐんしかんがっこう)、海軍では海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)で行われました。旧日本軍には独立した空軍はなく、陸軍と海軍にそれぞれ航空部隊がおかれていました。
■元岡飛行場
元岡飛行場(もとおかひこうじょう)は昭和16年夏頃、大日本飛行協会(だいにっぽんひこう)の福岡飛行訓練所として、糸島郡元岡村(現福岡市西区大字元岡)の水田地帯を買収して開設され、在学中の大学・高等専門学校生に飛行訓練を行いました。訓練生は九州帝国大学・福岡高等学校(現九州大学)、西南学院高等学部(現西南学院大学)、福岡高等商業学校・九州専門学校(ともに現福岡大学)九州歯科医学専門学校(現九州歯科大学)、明治専門学校(現九州工業大学)などに在学し、在学中の3年間の土・日・祝日に訓練所に通い、基本的な操縦技術を習得することになっていました。訓練所は南北600メートル、東西500メートルの飛行場と格納庫3棟、燃料タンクや給水タンク施設、事務所・合宿所など、総坪数約10万坪の施設でした。17年5月2期生、18年6月3期生、19年3月4期生が入所しましたが、その間、戦局の悪化から学生の卒業が繰り上げられ、1期生は18年9月に大学を卒業し、陸海軍に入隊しました。その他の訓練生の多くも19年6月には陸軍入隊を前提に仙台飛行学校に入学しました。