平成13年5月15日(火)~平成13年7月8日(日)
■「戦争から帰る」
現役兵の兵役期間は2年間(海軍は3年間)だったので、満期で除隊する人もいました。師団の近くには除隊の記念品を製作して販売する店があり、除隊者が盃などに「満期除隊記念」や「支那事変(しなじへん)記念」などの語句を入れるよう注文し、帰宅後知人や近所の人々に配ったりしました。しかし戦地で死亡し、無言の帰宅をする武官・兵士もいました。太平洋戦争の契機となった昭和16年12月の真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)で戦死した海軍特別攻撃隊の9人は「九軍神(きゅうぐんしん)」と呼ばれ、小説や映画、紙芝居のモデルにもなり、一般の人々の戦争への関心を高める宣伝にも利用されました。戦争末期にはその戦死もすぐには知らされず、戦後になって戦死と伝えられる人もいました。
ランチ皿(大森邦明氏寄贈) |
碗と皿(三木治氏寄贈) |
伝単「感激の握手」 (星出和範氏寄贈) |
■総力戦体制
昭和12年に始まった日中戦争が長期化すると、国の力のすべてを戦争に集中させる総力戦体制をとらなければなりませんでした。そのために政治や社会を改革しようという「新体制運動(しんたいせいうんどう)」がおこり、その結果昭和15年に大政翼賛会が創設され、多くの政党はこれに参加するため解散しました。翼賛会は町内会などを下部組織に取り込み、その活動は市民生活のすみずみまで行き渡りました。昭和16年12月に太平洋戦争が始まると、いろいろな分野でますます統制が厳しくなり、多くの市民が戦時債券の購入、戦費の寄付、物資の回収などを通して、戦時体制に組み込まれていきました。
■翼賛選挙
昭和17年4月30日に投票が行われた第21回衆議院議員総選挙を「翼賛選挙(よくさんせんきょ)」といいます。本来は前年に行われるはずでしたが、戦時体制下で延期されていました。候補者推薦制をとり、定数と同じ466名の推薦候補を選ぶためにわざわざ「翼賛政治体制協議会(よくさんせいじたいせいきょうぎかい)」が組織されました。しかし非推薦候補の立候補も認められたので、選挙干渉が行われたにもかかわらず、85名が非推薦で当選しました。福岡一区(福岡市とその周辺地域)では、東方会(とうほうかい)の中野正剛(なかのせいごう)(非推薦)がトップで当選し、推薦候補が落選しました。この直後の県会議員補欠選挙でも候補者推薦制が行われました。
■福岡大空襲
昭和20年6月19日午後11時11分に始まった、アメリカ軍による福岡市への焼夷弾爆撃(しょういだんばくげき)を「福岡大空襲」と呼んでいます。20日午前零時53分までのおよそ2時間に、221機のB29爆撃機から約1500トンの焼夷弾が投下され、福岡市全域が被害を受けました。焼夷弾攻撃は日本の家屋を焼失させるよう工夫されていました。焼夷弾は鉄製の筒の中にナパーム剤という油脂が詰められていて、引火すると燃え上がるようになっていました。通常焼夷弾を束にして投下するので「集束爆弾」と呼ばれることもあります。特に奈良屋(ならや)・冷泉(れいぜん)(現博多区)、簀子(すのこ)・大名(だいみょう)(現中央区)方面での被害は大きく、奈良屋小学校区では焼け残った家は、わずか4軒しかありませんでした。
■戦争の終わり
昭和20年8月広島、長崎に原子爆弾が投下されました。日本はポツダム宣言を受諾し、連合国軍に対し無条件降伏することを決め、8月15日正午ラジオ放送を通じて天皇が発表しました。日本は敗戦国として連合国軍(アメリカ軍)に占領され、本土は昭和27年、沖縄は昭和47年まで占領統治が続きました。戦争は終わりましたが市民生活はその後も困窮を極めました。空襲により市街地は焼け野原となっており、物資は不足していました。また敗戦によって日本が失った植民地・占領地から多くの日本人が帰国しました。
(野口 文)