平成13年6月5日(火)~平成13年7月15日(日)
博多を代表する夏祭りである祇園山笠(ぎおんやまかさ)は、その起こりは中世といわれますが、直接には江戸時代からの伝統を強く受け継いでいます。しかし江戸時代と明治時代では、その背景となる社会の変化によって、祭りの様子がかわっていきました。とくに江戸時代には、祭りの最後をかざって博多の町々を練り歩いていた、16メートルもの舁山(かきやま)は、明治時代には、一時禁止されたり、舁山の高さを低くしたりするといった、様々なできごとに見まわれました。その大きな原因の1つに、博多が、新しい都市として飛躍するために必要な、電信、電話、電灯、そして電車の開通など、勇壮な舁山とぶつかってしまう、数々の高架線設備の普及にあったといわれ、同時にそれは博多の近代化と裏腹なものでした。
この展示では、江戸時代中期から幕末の山笠、明治5年の山笠中断前最後の山笠、同16年の舁山復活後のやや低めの山笠、同43年の舁山廃止により、飾り山と現代型の舁山への移行したあとの山笠などを、黒田資料を始めとする、館蔵の絵画や写真資料などによって紹介します。明治になっても絶えることのない博多庶民文化を、山笠の姿の変遷からぜひご覧ください。
博多祇園山笠 (嘉永7年) |
山笠図 (明治29年) |
山笠下絵 |
山笠図 (明治5年) |
山笠図 (大正11年) |
江戸中期から幕末の山笠絵図
江戸時代の博多祇園山笠絵図として古いものは、「博多祇園山笠巡行(じゅんこう)図」で、そこには17世紀後半の博多の町を練り歩く姿がみられます。これによると当時の山笠は、台の上の骨組みを美しい幕や布でかざり、天辺(てっぺん)に城壁風の設えをして旗や指物(さしもの)をいくつも飾り、甲冑をつけた武者人形が天辺や台の上廻りに飾られています。とはいえ全体的にかなり細めで、高さも旗や指物で稼いでいるような感じで、簡素な姿です。その後、18世紀に入り、山笠は1、3、5の奇数番が「修羅(しゅら)」もの(合戦物、さし山)2、4、6の偶数番が「かずら」もの(堂山)とわけられました。この世紀後半から幕末までの山笠の絵は、いくつも残されています。とくにある1年で仕立てられる6本の山笠全部を掛軸や屏風に残したものがあり、当時の様子を偲ばせます。山笠を描いて活躍したのが博多の三苫氏で、もとは山笠の人形作りからはじまり、しだいに、博多が町奉行所にだす公式な絵図作成を任せられ、19世紀にはいってから幕末期までは、英之(えいし)、主清(しゅせい)の2人が腕を競いました。英之は力強い構成、主清は華麗な色彩で有名です。彼等の描く山笠は16メートルに及んでいたといわれ、とくに幕末期の山で 上、中、下にもれなく人形や建物など飾りを配し、豪華を究(きわ)めたものも出てきました。まだ全体的には、さし山、かずら山ともに下の台から天辺にかけて、細くなっていく形状が特徴的でした。なお、山笠図も単独で1つの当番町のものが描かれているものも多数あり、描いた人も分からないものですが、山笠を作る際の下絵にされ、その後に記念に残されたものでしょう。