平成13年6月5日(火)~平成13年7月15日(日)
明治5年舁山禁止と博多の近代化
明治5(1872)年11月、博多の2大祭りである正月の松囃子と、祇園山笠は福岡県庁から禁止されました。その理由は、「華美で作り物にお金が懸かり、家財を破産させる元凶で、文明開化の時代に合わない」というものでした。展示した資料の中の明治5年博多祇園山笠図は下川端(しもかわばた)町のもので、禁止される山笠の最後のものです。その姿も幕末期のものよりは、やや山の中間がふくらみ、豪華な様子が窺がえます。しかも高さは幕末期のものと同様に高いものです。
ところが山笠が諸国から大勢の人が見物にくるほどの名物である事を惜しむ人々は多く、すぐに翌6年から山笠復活の嘆願が始まり、16(1883)年には復活を果たしました。
しかし、この間に博多のいわゆる文明開化の波は押し寄せ、明治10(1877)年には電信線が福岡から住吉をとおって博多の東をかすめ、しかも同12年には博多の通筋(とおりすじ)(博多を横切る旧唐津(からつ)街道)から東町(ひがしまち筋(聖福寺まえの通り)に沿って敷かれたりしました。この電信線は、当時の政治的大事件だった西南戦争などの鎮圧に威力を発揮しました。
舁山復活から飾山・走山へ
大正年間の山笠図 |
明治16年、復活した山笠は、従来のものより低くなりました。その当時の姿は明治20年代後半、当時普及した写真によって、数多く残されています。高さは写真で見る限り10メートル程度となっています。その代わり、全体的に中間部分が膨らんだ形をした、土筆(つくし)の形をしているものなどがみられます。短くなった分だけ、横の幅を目いっぱい使った飾りで固めたのでしょう。しかしやはり舁山なので締まった姿をしています。また法被姿で記念写真に写っている人々は、相変わらず勇壮です。この時期の山笠絵図としては、明治29(1896)年、明治41(1906)年の万行寺前(まんぎょうじまえ)町のものを展示しています。
後者は色がついていない、いわゆる白描で、山笠作成の際の見取り図に使われたもので しょう。
その間、博多の近代化は進み、『追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)』によると、明治29年に電灯(民営)、 同30年に電話線が引かれました。そのため、この30年は造り物の人形、翌31一年は約9尺(約2.7メートル)の小さい山に変更されたりし、山笠廃止論も再び浮上してきました。そして山笠にとって決定的になったのが、明治43年3月の電車の開設で、これにより、電車架線より高い山笠を舁いて廻ることは出来なくなりました。そしてこの電車開通は「九州沖縄8県連合共進会」という福岡市の近代的発展をめざす博覧会のために計画されたものだったのです。
この後、据(す)えて飾るための飾(かざり)山と、追山の時に人々が担いでまわる低い舁山に分けられることとなりました。そしてこの舁山は現在と同じ高さ(2.0~2.5メートル)となったといわれます。そして『追懐松山遺事』は、幕末最後の博多年行司(はかたねんぎょうじ)であった山崎藤四郎(やまざきとうしろう)が、かつての山笠の祭礼の記録を留めるため、この明治43(1910)年に著わしたものでした。その後の山笠絵図としては大正時代のものが残っています。飾山となってからは、再び高さはかなりのものに作られています。残された写真でもそれは確認でき、さらに今の飾山と同じく、覆いも作られています。また舁く必要がない分、全体的に重層的な感じがします。しかし山笠の姿はかわっても、写真に移っている人々の誇らしげな表情はいつも変わらないようです。
(又野 誠)