平成13年10月16日(火)~平成13年12月2日(日)
万年願と歌舞伎
昭和40年代の小呂島 |
姪浜から市営渡船で1時間5分海路をゆくと、やがて海に突き出た瘤のような小島が見えてきます。それが福岡市西区の小呂島(おろのしま)。博多湾から45キロメートル、糸島半島から約30キロメートルの玄界灘に浮かぶ周囲3.4キロメートルの離島です。
中世は海外交易で活躍した宗像神社領で、無人島でした。正保(しょうほう)2(1645)年西浦から漁夫5人が移り住み、定住化が始まったといいます。島の生活史はここから始まります。昭和36(1961)年、明治時代以来属していた北崎村の福岡市編入で、福岡市西区に属しています。現在は、世帯数62戸、人口233人の漁業の島です。ここを舞台として披露されてきたのが、万年願歌舞伎(まんねんがんかぶき)なのです。
歌舞伎が、いつ、どのようにして始まったのか、明らかではありません。しかし、次のような言い伝えがあります。
江戸時代のこと、この島に疫病が流行(はや)った。島人は必死に平癒を祈り、神々に「もしこの願い叶(かな)うならば、たとえ島人1人になろうとも、芸能を奉納し続けます」という強力な「万年願」を懸けた。当時、この島には医者はいない。神頼みの甲斐あってか、病魔は去った。願成就(がんじょうじゅ)として奉納するようになったのが青年歌舞伎である、というものです。また、あるとき不漁が続いたため、大漁を祈願して始まった、という別伝もあります。残念ながら、この昔語りを証明する文献はどこにも残っていません。昭和になっても、「万年願大漁祭」という名前で青年歌舞伎が演じられていますので、小呂島では、以上ふたつの伝承を併せて、起源としているようです。
大正・昭和初期の歌舞伎
江戸時代のことは島でもわかりませんが、島田島太郎さん(明治44年生)が大正・昭和初期の青年歌舞伎の様子を語ってくれました。島田さんのお宅は「本家(ほんや)」と呼ばれ、正保2年に藩主黒田忠之の命で移民してきた、西浦(にしのうら)浦庄屋の分家権右衛門外4家族11人の子孫にあたる小呂の草分けとされます。
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歌舞伎は時代物ばかりでした。教えてくれる師匠(ししょう)は芦屋役者の五十嵐太三郎(いがらしたさぶろう)という人でした。弟が三味線をひく太夫で、息子が振り付けをしていました。旧暦6月末日に師匠は来島すると本家に宿泊し、島田家がすべての世話をすることになっていたのです。また、歌舞伎衣装は櫃(ひつ)に入れて島田家に保管される習わしになっていました。
昭和24年 青年歌舞伎の役者たち |
歌舞伎を演じるのは青年で、16才から青年に入りました。33才までが青年と呼ばれていました。青年に入ると青年宿で寝泊まりするようになります。氷貯蔵庫の上にあった小屋が青年宿でした。私は立役(たちやく)(男役)で屋号は「江戸坂(えどざか)」と名乗りました。「江戸坂」は自分を入れて3軒ありました。いずれも、親戚です。他の屋号には板東(ばんどう)、三桝(みます)、姉川(あねかわ)、若山(わかやま)というのがありました。屋号は新しく作られることもあったようです。
私が歌舞伎に出ていた昭和19年までは、行事はすべて旧暦で行なわれていました。練習は科白(せりふ)から始まりました。まず、師匠さんが各人に科白を書いて渡し、それを各人が覚えます。下のお宮(七社神社(しちしゃじんじゃ))で夜に旧7月8日~10日の3日間科白の稽古をしました。演じる歌舞伎はいつも、6段目までありました。外題(げだい)で自分が良く覚えているのは「壺坂寺(つぼさかでら)」です。
昭和39年 嶽宮神社での立ち稽古 |
11日からは上のお宮(嶽宮神社(たけのみやじんじゃ))へ上がり、立ち稽古が始まりました。6段を1段ずつ区切っての練習でした。1番の出し物は「切狂言(きりきょうげん)」といいました。昼には、親戚の女性たちよって弁当が届けられました。オオベントウといい、寿司などのご馳走で楽しみでした。嶽宮神社での稽古のときには、中年が2度ほど青年の出来を確かめに来きました。覚えていないところがあると、中年はやかましく青年たちを叱りました。それで覚えることになったのです。17日に立ち稽古が終わって嶽宮から降りてくると、青年たちは私の家(本家)までやってきて、それぞれの役の衣装をもらいました。それを各自が家に持ち帰り、衣装が傷んでいれば、繕(つくろい)をしたものです。舞台は今の保険福祉所がある場所にありました。普段は網小屋として使われていましたが、芝居の頃になると、網を外に出して準備しました。舞台の前にはタナ(戸板)を敷いて桟敷を作りました。
昭和30年代 三番叟を踊る子供たち |
18日から本番になりました。朝から清道旗(せんどうき)2本と大漁旗を先頭に、太夫・青年・子どもが行列して島の社を廻りました。私の家の前から出発します。最初に嶽宮神社に登って、子どもの手踊り、三番叟(さんばそう)、青年の端踊りを神前に奉納するしきたりです。青年の踊りは「御奉楽(ごほうらく)」といい、恵比須・長者・大黒様に扮した3人が短冊(金一封などと墨書したもの)付きの笹2本を持って踊りました。それぞれの役に「そもそも恵比須と申すは~」というような口上がありそれを唱えました。笹はお宮に奉納しています。七社神社、恵比須社を回って同様に奉納し、一行は本家に戻りました。
昭和40年8月18の舞台 |
歌舞伎は18日から20日の奉納でしたが、3日とも同じ順番で外題を演じました。歌舞伎を見るために、わざわざ博多から見物人が来ていました。最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」といいました。切狂言という最後の出し物が終わると、すべての役者が全員舞台に上がって「千秋楽」を唄いました。終わると幕が下り、舞台では、「天下太平」・「四海波」を青年たちが幕の中で唄って踊りました。これは見物人は見ることができません。これで舞台での行事はすべて終わりました。それから、笛・太鼓で役者たちは本家まで練ってきて、ここでもう1度「千秋楽」を唄いました。ここで、万年願歌舞伎はほんとに終わりとなりました。
翌21日には、青年たちが着用した歌舞伎衣装を櫃に戻して本家に収め「手三本」を入れて〆ました。
私が27才か28才(昭和15年~16年)のときに、唐泊・西浦に行って歌舞伎芝居をしたことがあります。浜を舞台にして、役者は17~18人で「伊賀越」を演じたことを覚えています。