平成13年10月16日(火)~平成13年12月2日(日)
島の近代化と歌舞伎と終焉
豪華絢爛(ごうかけんらん)な歌舞伎も、昭和44年を以て中止となりました。近代化と万年願の変容を経験した嶌田啓次郎さん(昭和9年生)・池田哲也さん(昭和16年生)・島田澄夫さん(昭和19年生)の話を聞いてみましょう。
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昭和44年8月18日の舞台 昭和44年8月18日 最後の「千秋楽」 |
歌舞伎は昭和44年が最後でした。その頃、1週間も2週間も漁を休んで歌舞伎などするものではないという風潮がありました。テレビが島に普及したことが原因だったように思います。島最初のテレビは小呂小中学校に入りました。島の防波堤を築いた黒瀬組がお礼に寄贈したものでした。毎日大人も子供も学校までテレビを見に行きました。昔の学校は、集落の中にあったのです。まるで映画館のようだ、と思いました。それが昭和35年のことでした。それから、青年宿にもう1台入り。やがて各家庭にも普及していきました。電力の供給は夜11時まででしたが、そのころからすでにテレビは普及していました。昭和49年に電気が24時間供給になり、電気冷蔵庫はそれから普及しました。それまでは、ガス冷蔵庫でした。
テレビのないころには、七社神社の拝殿で歌舞伎の練習をしているときから、島のものは大勢が毎晩見に来ていました。しかし、テレビが家庭に入るとその数もだんだんに減りました。それまで、最大の娯楽がこの歌舞伎だったからだろうと思います。それが徐々に地位をテレビに奪われたようです。昭和44年頃には、どこの家庭にもテレビはあったように思います。
また、このころ熊本から来ていた尾之上多喜之助(おのうえたきのすけ)師匠が亡くなった。これが決めてとなって、青年が歌舞伎を演じることを昭和44年を最後にやめました。歌舞伎を中止したものの、「万年願」なので「島の人が独りになっても奉納します」という神様との約束があり、芸能奉納を止めるわけにもいかず、昭和45年~56年まで旅役者を雇って、新国劇や浪曲(ろうきょく)、漫才(まんざい)、舞踊などを奉納しました。姪浜の林さんが旅役者の世話をしてくれました。だいたい10人くらいの役者が来ていました。旅役者は小呂丸で姪浜まで迎えに行きました。浪曲では「藤月子」「梅川太郎」がきました。博多ニワカもよんだことがあります。「野上一次郎」でした。「博多玄海」さんの家にもお願いに行ったことがあるが、出演料が折り合わずあきらめました。
平成3年8月18日 七社神社前での高祖神楽奉納 |
昭和56年からカラオケ大会も始めました。その頃、旅役者の世話をしてくれていた林さんが亡くなり、旅役者を呼ぶことも止めてしまいました。代わりに始めたのが、盆踊りです。しかし、平成元年旋網(まきあみ)船の船火事、平成2年大福丸の遭難と災難が続いて、これは万年願に芸能を奉納しなくなったからだろうという噂がたちました。そこで、高祖神楽(たかすかぐら)を呼んできて奉納することにしました。これは平成2年から11年まで続きました。しかし、神楽も後継者がいなくなり中止となってしまいました。
平成12年からは西川プロダクションの芸能人が来て、学校の体育館で演芸を披露しています。そして、三番叟だけは小呂の子供たちが踊って奉納するようになりました。
万年願と修験者
ここからは筆者が語ります。歌舞伎の稽古は、島の最高峰「宮山」頂上近くにある嶽宮神社と集落内にある七社神社の2ヶ所に分かれておこなわれました。このふたつの神社は高低差にして約100メートルあります。稽古ですから、集落近くの七社神社ですればいいはずなのに、なぜ、わざわざ不便な山の上でするのかが問題なのです。両神社拝殿の広さもそんなに変わりません。嶽宮神社は集落のはずれに一の鳥居があり、そこから鬱蒼(うっそう)とした「森」に入り、真っ直ぐ山頂にのびる長い石段を登り切ったところに拝殿があります。一気に登りきるには辛いところです。境内(けいだい)は神域とされ、草木1本の持ち出しも禁じられてきたといいます。昼尚暗いという表現がぴったりで、神社も「山宮」といえるものです。祭神は熊野三神。山岳信仰で祀られることが多い神々です。
七社神社での科白(せりふ)の稽古が終わると嶽宮神社での立ち稽古になります。ここで新入りの青年には大切な仕事があったといいます。年長者より1時間早く登って、拝殿の下に松の葉を焚くマツバフスベをするのです。嶽宮は蚊が多くこれで蚊遣りをしたのです。これをやっておかないと、年長の青年たちからやかましく叱られたといいます。また、お茶沸かしも新入りの仕事でした。下の井戸からタゴを天秤で嶽宮まで運ぶのです。これは重労働だったため、新米2人1組で、親分子分のような関係を結んで水汲みをしました。これを稽古中2、3度繰り返しました。汲み上げた水は、拝殿右手の大木(今はない)の下に設えた臨時の竈(かまど) でお茶をわかしました。急な石段をいききする道すがら、科白の練習をしたのだそうです。山宮での厳しい稽古が終わるといよいよ本番となるのです。
万年願であるために、両神社に歌舞伎を奉納しなければならないからだという説明が、この問題のまともな答えでしょう。もちろん、本番前に集中した稽古が必要だから人目のない嶽宮神社でする、という理由もそうでしょう。しかし、ちょっと想像をたくましくしてみると、次のようなことも考えられます。
「山から里へ」というのと共通した方法を持っていた人たちがいます。山伏(やまぶし)こと「修験者(しゅげんしゃ)」です。彼らは山中で厳しい苦行に耐え、やがて里に降りてくるのです。このときに、芸能が披露されることがあるのです。新入りの山伏のことは「新客(しんきゃく)」と呼んで、人一倍の苦行を課すのも特色です。青年の新入りの水汲みなど、まさにこの苦行に当てはまるような気がします。「御奉楽」で隊列を組んで山宮に儀式舞を奉納にゆく様などは、山伏が山中に修行に入る「峰入(みねい)り」と同じような感覚があります。青年たちは神聖な山中での稽古で神威(しんい)を身に憑(つ)け、里で歌舞伎を披露することで、島の厄を払い、豊漁をもたらす役割を持っていたのかもしれません。
さて、小呂の生活史は、江戸時代以降であることはすでに話しました。この限られた歴史のなかで、島に山伏がいたことがあるのでしょうか。残念ながら、記録には残ってはいません。しかし、東の浜の断崖「櫓石(やぐらいし)」上にその「痕跡」があります。「役行者像(えんのぎょうじゃぞう)」です。「櫓石」自体のまたの名も「行者石(ぎょうじゃいし)」と呼んでいます。伝説では「江戸時代のある頃、旅の高僧が、この地に安置してそのまま去っていった」と伝えています。この高僧が山岳宗教「修験」に関係していたことは間違いないでしょう。
願うことは誰にでもできます。もちろん、産土(うぶすな)の神々に願をかけることも同じです。しかし、それをどんな儀式に則(のっと)って行うかは、専門知識が必要となってきます。それができたのは、神官・僧侶そして修験者だったのです。小呂には江戸時代から現在まで神官・僧侶が住んだ記録はありません。もしかしたら、この高僧のような旅の行者がこの万年願と歌舞伎をアレンジした張本人だったのかもしれません。現在も行われている儀式舞「御奉楽」の口上に彼らの姿が見え隠れしているように私には思えるのです。
(福間裕爾)
参考文献
『北崎村誌』昭和36年/宮地治邦「小呂島に於ける部落祭祀」(『宗教研究』71号 昭和37年)/北川敏克「小呂島の現状と問題点」(『しま』第52号昭和42年)/野間吉男『玄海の島々』慶友社 昭和48年/『ふくおか歴史散歩』第2巻昭和57年/『海祭』平成10年