平成14年4月9日(火)~6月9日(日)
3 修羅(しゅら)の男
修羅とは、仏教にいう六道(ろくどう)(衆生(しゅじょう)が生前になした業(ごう)によって生まれ変わる6つの世界)のひとつで、現世で戦(いくさ)をした者が死後に堕ちる、苦しみに満ちた世界のことです。能には、「修羅物」という一つの大きなジャンルがあります。そこでは、戦の報(むく)いにより修羅道に堕ちた武将が亡霊となって出現し、ありし日の武勇や悔恨、死後の苦しみなど、さまざまなことを生者に語りかけてきます。
修羅物で、亡霊が訴えるのは、旧敵への憎しみや戦闘の苦痛だけではありません。戦によって引き裂かれた情愛や、戦乱にあっても忘れ得なかった風雅の心を主眼とするものも多くあります。例えば、『清経(きよつね)』では、「生きるも死ぬも一緒」と誓い合った妻を残し、自ら海に身を投げた平清経の亡霊が、妻の前に登場し、家臣がとどけた形見を受け取らなかったことを咎(とが)め、また、妻からも自分を残して死んだことを責められます。また、『忠度(ただのり)』では、平忠度の霊が登場し、勅撰和歌集に採られた自作の和歌が「詠(よ)み人知らず」とされたことの訂正を求めます。美しさの中に苦悩をひめたような今若(いまわか)(No.9)のほか、修羅物には、中将や若男といった美青年の面が数多く登場します。このことは、修羅物の能の中に、いかに豊かな情趣が盛り込まれているかを反映しているのです。
いっぽうで、武将の霊にふさわしい迫力のある面もあります。鎌倉時代の勇将、荏柄平太胤長(えがらのへいだたねなが)の容貌を写したといわれる平太(No.11)は、いかにも武将の霊にふさわしい豪快な面容です。『屋島(やしま)』に登場する、ありし日の武勇を語り、死してなお戦に心駆り立てられる源義経(みなもとのよしつね)の霊などに用いられます。目に金泥が施されていますが、これは、霊的な性格を強調する表現であり、このような面は、現身の人間として用いられることはありません。頼政(よりまさ)(No.12)は、平家討伐に失敗し悲愴な最期(さいご)を遂げた源頼政が登場する『頼政』の専用面ですが、いっそうの凄みを発しています。
9.今若 |
10.景清 |
11.平太 |
12.頼政 |
4 宿業(しゃくごう)の男
怪士(あやかし)(No.13)、蛙(かわず)(No.14)、痩男(やせおとこ)(No.15)は、落ちくぼんだ目が怪しい光を放つ異様な面容ですが、これらはみな、怨霊をあらわす面です。能の世界では、怨霊は、人に禍(わざわい)をなす祟(たた)り神としてではなく、宿業を背負ったものとしてとらえられています。例えば、『阿漕(あこぎ)』では、生類殺生(しょうるいせっしょう)が禁じられた海で密漁を重ね、海に沈められた漁夫・阿漕の霊が登場します。殺生を罪科(ざいか)とする仏教的な意識と、身過(みす)ぎのために生き物を殺さざるを得ない運命との狭間で、地獄の責め苦に苛(さいな)まれる者のやるせなさ。蛙や痩男の面に見られる虚(うつ)ろな表情は、このような悲哀をよくあらわしていると言えるでしょう。
13.怪士 |
14.蛙 |
15.痩男 |
16.長霊べし見 |
5 言祝(ことほ)ぎの男
茗荷悪尉(みょうがあくじょう)(No.17)と皺尉(しわじょう)(No.18)は、いずれも老人の相を呈しています。悪尉の面は力強い老人、尉の面はすべてを達観したかのような静かな老人をあらわします。茗荷悪尉は、ふつう強い威力を持った神や竜王の役に用いられますが、『恋重荷(こいおもに)』の執念を乗り越え、恨みなす女の守り神となった老人の霊に用いることがあります。老人らしからぬ情念と守護神としての頼もしさを表現するのに、悪尉がふさわしいとされたからでしょう。尉の面は、神の化身として登場することが多いのですが、皺尉は、典雅に舞って天下泰平を言祝ぐ神そのものとして用いられます。
(杉山未菜子)
17. 茗荷悪尉 |
18.皺尉 |