平成16年2月3日(火)~4月4日(日)
香椎宮頓宮の万葉歌碑 |
博多湾は、志賀島(しかのしま)・海の中道(なかみち)と糸島(いとしま)半島に抱かれた東西17キロ、南北5キロの入海で、西側に口を聞いています。水深が浅く、湾内は波静かなのが特徴。古代からアジア大陸との交流の場であり、幾多の歴史の舞台にもなりました。福岡の歴史と文化は、いつの時代も博多湾とともにあったといっても過言ではないでしょう。
その風景は、海進(かいしん)や海退(かいたい)、河川からの土砂の流入、海岸の松の植林、護岸工事や埋め立てなどによって、その姿を変えてきました。この展覧会では、万葉集(まんようしゅう)にはじまる和歌や紀行文、絵画さらに地図・絵図・地誌などで博多湾の風景はどのように描かれてきたか、時代を追ってその変遷をたどってみようというものです。
1 古代‐神さぶる荒津の崎に
8世紀、奈良時代に作られた万葉集の歌によって、博多湾内の風景を読み取ることができます。志賀島(しかのしま)は「藻(も)刈り塩焼き」と海人(あま)の製塩、香椎潟(かしいがた)では「朝菜摘みてむ」(写真1)と干潟での海藻採りの風景が詠まれています。能古島は「也良(やら)の崎守(さきもり)」とみえ防人(さきもり)の警備、鴻臚館跡(こうろかんあと)、荒津(あらつ)、唐泊(からどまり)では遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)の歌によって、海外に開けた港の様子を窺うことができます。当時の海岸線は、かなり内陸に入り込んでいたことも知られ、万葉集の歌は博多湾の風景を詠った初めてのものといえます。
2 中世‐前に入海はるかにして
15世紀、室町時代の連歌師宗祇は「筑紫道記(つくしのみちのき)」(文明12年・1480)(地図、写真2)で、歌枕(うたまくら)になっている博多湾の名所‐博多、住吉社、志賀島・海の中道、生の松原、筥崎社・筥崎松原、香維宮・香椎潟を旅し、和歌や連歌の発句を詠んでいます。時には万葉集の歌も引き「前に入海はるかにして、志賀の島を見渡して、沖には大船多くかかれり、もろこし人もや乗りけんと見ゆ、右に箱崎の松原遠く連なり、仏閣僧房数も知らず、人民の上下、門を並べ軒を争ひて、その境四方に広し」と博多湾の風景を詠み、その後の名所の旅の先がけになっています。
宗祇「筑紫道記」文明12(1480)年 |