平成16年2月10日(火)~4月11日(日)
"都(みやこ)"へのまなざし
今山より見た今宿(平成16年) |
「今宿」は、江戸時代に、唐津街道筑前二十一宿(唐津かいどうちくぜんにじゅういっしゅく)のひとつとして成立し、農村から町場へと変貌してきました。
現在では新興住宅も増え町域も広くなり、昔の面影はなくなりつつあります。しかし、そこで暮らしてきた人々の記憶のなかには、少し前の今宿の姿がまだしっかりと残されています。
福岡・博多をすぐ近くに見ながら発展してきた今宿。そのまなざしは常に"都"へ向いていました。都市への憧憬(しょうけい)を内包する町ですが、周辺に目を転じれば、近隣の村々からは、今宿自体が魅力あふれる場所として見えていたのでした。いわば、ちょっとした"都会"と捉えられていたわけです。こんな今宿について、かつての宿場町であった松原(まつばら)・横町(よこまち)・上町(うえまち)の「昔語り」を紹介します。
今宿の移り変わり
ここで今宿の移り変わりを簡単に紹介しておきます。今宿は、永禄(えいろく)年間(1558~1570)に原田氏によって町立(町をつくる計画)てされたのが始まりです。そして福岡藩主黒田長政の代に農村であった「青木村(あおきむら)」から「谷村(たにむら)」として分けられ、福岡城下から肥前国唐津に通じる唐津街道の「筑前二十一宿」の1つの宿駅となりました。宿場は、唐津街道沿いの上町・横町・松原の3町からなり、上町と横町は永禄年間に大字谷から、松原は寛文2(1662)年の移住によって各々成立し、町が徐々に形成されてゆきました。寛政6(1794)年寅月4日の調べでは、横町と上町は17軒、松原31軒の戸数が記録されています。横町に「継所」が置かれ、公儀つまり幕府や藩からの貨物の運送や大庄屋や本郡各村の庄屋への伝令、姪浜前原両継所への文書の継送などを行っていました。
明治になると、町の規模も大きくなり、初年の戸数は174軒人口834(男438・女396)人を数えています。明治7(1874)年に小学校が開校し、横町には郵便取扱所がありました。明治22(1889)年には今宿村となり役場が置かれました。昭和6(1941)年に福岡市と合併して今宿町となり、昭和47(1966)年から同市西区となっています。
"都"と同調する ―祭りの語り―
今宿のまなざしの先にある"都"はどこなのか、それは、祭りを見れば自ずと分かります。ここでいう"都"とは、けっして京都を指しているわけではありません。すなわち、都会的雰囲気を持った場ということになります。
今宿には大きな祭りが4つあります。玉せせり、鬼すべ、そして、2つの山笠です。いずれも都市的雰囲気を持つ祭りです。それが、集中している町は今宿をおいて他にないのです。それぞれの祭りを見てみましょう。
【玉せせり】
各家を訪れる玉(平成16年) |
松原で正月の3日に行われています。現在は二宮神社(にのみやじんじゃ)本殿に合祀(ごうし)されている恵比須神社(えびすじんじゃ)の祭りです。玉せせりの始まりは、はっきりしませんが、明治時代には既に行われていたのではないかと思われます。
早朝に、神社裏手の海で洗い清めた木製の玉が、赤い褌姿(ふんどし)の男児たちによって松原の各家を廻ります。セーセッター、セーセッタという掛け声も高らかに、各家を訪れて玉を持ち込み祝います。迎えた家では、玉にお酒をかけてお礼をします。現在はこの玉が4つあります。なぜ、こんなに玉が多いのでしょうか、その理由を聞いてみましょう。
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玉せせりは、最初は玉1個でやっていました。それが町域拡大に応じて玉が4個にまで増えました。松原が西・東に拡大し、西松原が1~2丁目に分かれ、新たに市営住宅が入ってきたから、玉1個では廻れなくなったのです。4つの組に子どもたちが分かれていくようにしたのです。ところが、今度は近年の少子化の影響で、玉を持って廻る子供が減ってしまいました。
本来の玉せせりでは、各戸を玉が廻るとき、持って廻る子供のうち、その家の長男が持ち込むという習わしになっていました。しかし、今度は子供が足りなくなり、今ではその長男が玉を持ち込むという儀礼の意味が分からなくなってしまいました。
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玉せせりは、筥崎宮(はこざきぐう)のものが有名です。それはあくまでも大人による競り合いが中心の行事。それに対し子どもたちが各家を訪れるものでは、近代で途絶えてしまいましたが、博多各町で行われていた玉せせりがあります。同じような行事は玄界灘沿岸の漁村では今でも盛んに行われています。今宿の玉せせりは、この博多の「子ども玉せせり」と同じものということになります。