平成16年2月10日(火)~4月11日(日)
【鬼すべ】
鬼と青年たち(平成16年) |
上町天満宮の正月7日の行事です。上町の青年が扮した鬼が各家を訪れ祝福する行事です。この行事もいつから始まったかははっきり分かりませんが、明治時代にはすでに行われていたようです。藁襷(わらだずき)と藁角(わらつの)を身に纏(まと)った鬼は若者と肩を組んで、オーニジャ・オーニジャの掛け声で押し合い、家に飛び込んで行きます。そして随行する子供たちのお祓(はら)い、お守り、お汐井(しおい)と新春の祝いが続きます。各家では、お酒や料理でもてなすのです。
神社に戻った鬼は、境内の松の枝を焚いた火に若者の介添えで、飛び込むのです。その間に、境内では「鷽替(うそか)え」が行われます。鬼が格子に押し込められると終わりです。今年は最後に、町内会長の音頭で参加者全員が、博多祝い唄「祝(いわ)い目出(めで)た」を唱和しました。かつては行われていなかったことです。鬼の飛び込んだ火で燃えた松の枝は、各家庭に持ち帰り「火災除け」の御守りにされます。鬼すべは今宿で1番賑やかな祭りとされていました。「昔語り」を聞きましょう。
・・・・・・・・・・・・・
昭和55年ころ、今宿最大の祭りは上町の鬼すべでした。夜店が沢山出て、各戸が接待をしていたね。接待の準備を各家がするのでとても賑やかだったですね。
かつての鬼すべでは、鬼の役を、糸島郡志摩町の野北(のぎた)から雇っていたと聞いています。米1俵と酒飲み放題という条件だったそうですよ。よその人が鬼になるので、若者も激しく押し合ったんだそうです。鬼は各戸を回るのがほんなことですが、最近は戸数が多くなって鬼が回れなくなった。また、鬼すべとどんど焼きが同じように考えられるようになり、1月7日にしめ縄を鬼すべの松の火にくべに来る人が増えた。鬼すべも時代に即応して変わっているんですなあ。
・・・・・・・・・・・・・
上町の隣組は7組。昔はそれをクミアイと言いよりましたな。1之組から4之組までの4組合でした。当番の組合が鬼になる人を見つけてきた。鬼の給料は、米1俵でした。昔は、よそから来た見物の人で賑わっていました。松原や横浜からの人が多かったですね。上町の天満宮までの通りは、夜店が出て賑やかでした。ジョウモンサンがいると、鬼の1団がその娘の方ばかりを追いかけて、行きつ戻りつして、なかなか他へ行かなかった。2、3年前のことだったろうか。最近は、新しい家も建て込んできて、戸数が増えたので、隣組で代表の家1軒を決めて、鬼が行き、そこでお汐井を振ったり、接待もするように変わった。
鬼すべのあとには鷽替えをしています。昔は、紙をまるめたようなものを、みんなで交換して、そこに本物の木の鷽が1個入ってくるというものでした。「ホンナモントカエマショ」と言いながら交換した。最初は木の鷽でしたが、町内の三菱に勤める人が、真鍮(しんちゅう)で鷽を作ってくれたので、それからは、この真鍮の鷽がホンナコトとして使われるようになりました。鷽を手にした人は、1年間家の神棚などに飾り、翌年の鬼すべの日に、酒1升を添えて神社にお返しする仕来(しきた)りになっています。
鬼すべのときは、昔はお煮染めを鉢に盛って玄関先に出して接待していました。鬼にはお酒だった。親戚も呼んでいました。親戚は松原にいましたが、1月7日によんだら、7月29日の松原の輪越し(二宮神社夏祭り)で接待してくれました。相互に呼び合ったものです。しかし、いつでしたか、もう何でも食べれる時代になったので、この接待料理もご馳走と思えなくなったので、どちらからともなく、これから相互の接待をやめようということになってしまいました。 ・・・・・・・・・・・・・
鬼すべは、時代の移り変わりで姿を変えてきています。最大の変化は祭日の変更です。現在1月7日に行われていますが、かつては違っていたようです。聞いてみましょう。
・・・・・・・・・・・・・
昔の「鬼すべ」は、1月25日でした。はっきり覚えとりませんが、たぶん戦後だったろうと思いますが、1月7日に変わった。それは、太宰府の「鬼すべ」が1月7日だから、上町もこの日に変えたのだと聞いとります。今の鬼さんは、昔とは形が違います。よく最近の若い人に言うのですが、「あら、まあ、今の襷は角生(つのは)やしチョーナイ(生やしているのか)」と。鬼がかける藁の襷には、今みるような角はなかったのですよ。
・・・・・・・・・・・・・
鬼すべはもともと、太宰府天満宮のものが原型です。同じ天満宮繋(つな)がりで、上町でも行うようになったものと思われます。太宰府が7日だからという理由の日程の変更なども、"都"を志向する今宿の姿を現しているように思えます。