平成16年2月10日(火)~4月11日(日)
【横町祗園山笠】
「清道」を廻る横町山笠(平成15年) |
横町祗園神社で7月14日に行われています。祗園神社は、博多櫛田神社から分霊したものと言われています。今は子ども山笠ですが、かつては大人の山笠でした。山笠の始まりには諸説あります。ある古老は、安政4(1857)年生まれの祖父から「自分が青年のときに横町の山笠を始めた」と聞いたと伝えています。これによるとちょうど明治の初め頃に横町の山笠が始まったことになります。その後、山笠は休止し、昭和20年代に復活します。昭和の復活について大正生まれの古老たちの話を聞いてみましょう。
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私は大正15年生まれ。24~5才頃に山笠をカタゲタ(担いだ)。横町祗園神社社殿の下に古い山笠の棒があって、昭和24~5年に山笠を担ごうということになって、棒を引き出した。しかし棒が、あまりに長いので、「もう少しこもなして(短くして)」担ごうということになり、切って短くした。山笠の棒は4本だった。人形も飾りもなんもない、ワクだけを拵えた山だったと思う。子供時代に横町山笠はなかった。このときに復活したようだ。
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大人の山笠をフトイ山と呼んだ。横町のお祗園様を盛り上げることから、「お祭りがさびしいので、博多の山を真似て担ごう」「博多山笠みたいに、本格的にやろう」ということが、町内の話し合いで決まった。その会合は、横町祗園社宮総代、中年、町世話人が参加したものだったと思う。
町内の大工の棟梁(とうりょう)が、博多川端町に山見に行って、台の寸法を調べてきた。それをもとに、博多に倣(なら)って、同じ形で台を作った。年寄りが、棒締めの方法もなんもかんも博多から習ってきた。台上は周囲を竹を編んで杉壁を飾った。そのなかに赤い棒(「鉄砲」のこと)があった。真ん中には御幣を立てるだけで人形などはなかった。重量は1㌧くらいだった。
お祗園様の前に「棒洗い」をした。棒を松原の浜に運んで海水で洗った。それから2・3日後に台を組んで、中年以上が「棒締め」をした。このとき、山舁(か)きに使う舁き縄を、年寄りが綯(な)い方を中年に教えていっしょに綯っていた。
7月4日、最初に「お汐井取り」があった。みんなで松原の浜に藁(わら)ツトを持っていき、海に浸けて砂を入れ、それに漂着しているアマモという海草を螺旋状(らせんじょう)に巻き付けた。2回~3回浜と祗園神社を往復して何本も供えたので、「千度汐井(せんどじおい)」とも言った。これとは別に、各組合が準備した一升桝(いっしょうます)に小縄を文字に掛けた「お汐井桝」にも、隣組長が海の砂を盛ってきた。当時横町には1~5組までの組合があった。この汐井を、翌15日の朝、隣組長が各組の各戸に配った。「お汐井配り」です。各戸では、お汐井テボに入れた。のちに、ツトを使うお汐井取りは、海にアマモがなくなったことから、石を奉納するように変わった。石を松原の浜に持っていき、海水に浸けてから祗園社に奉納した。7月15日の朝にする人もあった。
山笠は14日の夕方5時ころから担いだ。神社の境内で山笠に御幣を立て、舁き出し前に神職がお払いをした。境内から山笠は出発した。20人くらいで山を担いだ。台の前後には中年の会長と町内会長が乗った。
山笠は横町の1之組から廻り、3之組を経て町内を舁き終わると、松原へ舁き出した。町内だけでは、もったいないので、ちょっと山笠を見せることにしたわけ。今の東松原の病院のところまで行って折り返してきた。往路は、国道(202号)を通って、今のガソリンスタンドのところまで行き、復路は、旧道(唐津街道筋)を通って神社にもどりました。松原への舁き出しは、1回だけで終わりました。山笠の重量があって、舁いていくのが大変だったからです。
神社境内にもどると、山を前後に揺すって博多祝い唄「祝い目出た」を歌った。3番まで歌った。唄は博多のものと同じだった。唄が終わると「手打ち」をして行事を終えた。手打ちは「博多手一本」ではなく、「三三七拍子」だったような気がします。行事終了後は、お宮での「直会」になりました。翌15日に山を解いた。
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今の言葉でいうと「地域活性化」のために、博多の山笠を取り入れたことがわかります。復活した大人の山笠も昭和30年代には、人手不足により休止となります。そして、今見られる子どもの山笠として再度復活するのです。横町の山笠は、存続の願いを子どもたちに託したことになります。子ども山笠になってから、世話人の1人が消防団の会合に出たのがきっかけで、博多山笠の東流(ひがしながれ)の人々と交流を持つようになりました。その結果、今では世話人が東流の当番法被を身につけ、そして、博多山笠で使われた人形を飾るようになりました。また、境内には飾り山も見られるようになりました。こうしてみると、横町の山笠は、明治から現在まで、今宿のまなざしが博多へ向かっていたことを如実に物語っていると言えます。