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No.236

考古・民俗展示室

民族探訪 今宿(いまじゅく)

平成16年2月10日(火)~4月11日(日)

ちょっと前の今宿の暮らし

   さて、これほどまでに祭りにおいては、"都"に熱い視線を向ける今宿ですが、普段の生活はどうだったのでしょうか。上町と松原の年中行事と人生儀礼についてお2人の方の「昔語り」を聞いてみましょう。語り手は、大正8年上町生まれの松本(まつもと)ヒサ子さんと大正6年松原生まれの権藤充知子(ごんどうみちこ)さんです。その記憶のなかにある、ちょっと前の今宿の生活を覗いてみると、農・漁村と交流する今宿の町としての姿が見えてきます。まずは松本さんからです。年末の様子から語ってもらいましょう。
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 年中行事
【年越し】
  餅は、30日に搗(つ)きました。29日は「苦餅(くもち)つく」と言ってしませんでしたなあ。まず、お鏡をとってから、小餅となりました。「年(とし)の餅」は、2段重ねのお鏡餅のことでした。橙(だいだい)、おひねり、串柿などを載せ三方(さんぽう)で床の間に飾りました。
 「お大日様(だいにちさま)の餅」も作りました。これはひと重ねの丸餅で、上は塩餡(しおあん)でした。お大日様は女原(みょうばる)にあります。家の床の間に飾っていました。餡入り餅をつくるときは、「砂糖を入れると、亭主が甘もうなるから」といい、必ず塩餡でした。女原のお大日様の祭りのときに焼いて食べました。その祭りは、年が明けてからでした。
 戦前は、この辺の人たちは、大晦日の晩に「トシゴイ参(まい)り」といい、博多人参畑にある厄八幡(やくはちまん)(若八幡宮(わかはちまんぐう))に詣でる人が多かったように思います。

【正月】
  正月の膳は箱膳(はこぜん)でした。会席膳(かいせきぜん)はあるが、正月には出さなかった。これを使うのもコマーカ時(子どもの頃)にやめました。
 近所では正月の間鰤(ぶり)を食べますが、うちは父が青物が嫌いだったので魚は鯛(たい)でした。塩をした鯛を正月の間食べました。お雑煮は、餅と具は別々に調理し、器に入れてから汁を入れます。具には、椎茸(しいたけ)、蒲鉾(かまぼこ)、カツオ菜、魚、人参、ゴボウ、里芋、焼き豆腐でした。ダシは、昆布、ハゼ(イリコ)でとりました。ハゼは父が今津の浜崎から釣ってきました。ダシをとったハゼは砂糖煮にして食べました。
 正月7日は、畑にあるヨモギなどの七草(ななくさ)をとってきて、「七草粥」を炊いて食べました。作るときに唱え言葉は聞いたことはありますが、うちでは、何も言わずに作りました。
 年末の餅搗きのときに、臼(うす)の回りに藁を敷いて搗きます。これは、飛び散った餅を受けとめるためです。その藁を正月の7日早朝に自分の家の庭で燃やしました。これをホーケンギョウと言いました。まず家の主人が三宝荒神(さんぽうこうじん)さんから3段の餅の1番下の部分を下げてきます。そして家人に「さっ、ホーケンギョウするぞ」と言い、この餅を、このホーケンギョウの火で焙(あぶ)りました。それはほんなこと焼くのではなく、儀式的に焙る感じでした。そして、それを切りわけて、七輪に「テッキュウ」(4角の鉄網)を載せて焼いて食べました。

【小正月】
  正月14日の早朝は、ストーン、ストーンという音で目覚めました。2、3件先の農家で、モグラ打ちがあったからです。長い竹の先に付けた巻き藁で地面をたたき、モグラを追い出す音でした。そのとき「隣の家さえ持っていけ~」と聞こえてきました。この日家では「力餅(ちからもち)」といい、炊けたばかりのご飯の上に、小餅を切り開いて載せたものを、お膾(なます)といっしょに神様に供え、その後、自分たちも食べました。
 翌5日は、小豆ご飯を炊いた上に餅を載せたものを食べました。これはお膾といっしょに神様に供えました。毎月の1、3、5、7の日が神様にお膾を供える日でした。

【節供】
 3月節供は女の節供。お雛様(ひなさま)を飾りました。このとき働いていたら「バカの節供働き」と言われたものです。しかし、5月節供になると、この日は男の節供だから働けと言われたのがおかしかったですね。5月の節供には、大橋さんの作る博多人形のような泥人形を飾ってましたね。これは贈答されるものでした。大橋さんのおじいさん、大橋清助さんが今宿でこの贈答用の泥人形を作っていたのです。
 男の初節供には、幅8寸(約25㌢)、長さ1間(約1・8㍍)くらいの破魔弓を飾りました。親戚から贈答されるものでした。それは、1間の板に紙で岩・波・川などの背景を作って、その前に人形を飾ったものでした。小さな飾り山笠みたいな感じでしたね。那須与一(なすのよいち)など武将ものでした。女の初節供には、羽子板でしたが、ありふれたものでした。

【お盆】
 8月13日、今は納骨堂、昔は墓まで仏様を迎えに行っていました。蝋燭(ろうそく)をともした提灯を手に「この火についてコーゴザレ、コーゴザレ」と言いながら家にもどってきました。家に着くと仏壇に案内し、まずマチモウケダゴをあげるのが常でした。
 14日と15日の早朝には、カマトギ(鎌研)という所に湧水(ゆうすい)があって、そこまで水を汲みに行ていました。後には長垂の太閤水(たいこうみず)にとりに行くように変わりました。これは、カマトギの湧水に田んぼの水が入っているのを見つけたからです。この水でお茶を沸かして仏様に供えるのです。うちでは1升瓶に汲みましたが、近所の西村さんは、鎌研に行くときは、バケツを天秤で担いで行っていましたねえ。
 盆棚は仏壇と連続して3段に作ります。「仏様の中に入ったら、外にはださんと」といい、外には作らないと母から聞いていました。外に作る盆棚は、葬式屋さんの工夫でできたものです。今でも、葬儀屋さんが注文を取りに来ていますよ。それで床の間に盆だなを作って初盆をする家も出てきました。これには驚いて「あら床の間で初盆すると」と思ったものです。これは母の影響でしょうね。母は禅宗だったのか、そう言っていた。家の宗派は浄土真宗で西です。
 15日の晩は、提灯と線香を持って、お土産、やさい、オリョーゴ(ご飯のこと)、西瓜(すいか)、水イモなどを真菰(まころも)に包んで送りに持って行った。これは墓に供えるのではなく、お墓の前のどぶ川に投げました。お母さんは、仏さんと餓鬼さんのお土産を分けていた。
 送りでは、迎えのときのように台詞(せりふ)はなかった。墓は寄せ墓だったので、そこに線香・灯明を供えて、後ろをふり返ることなく帰った。後ろをふり返るとまた仏様がついてくるからだと言ってましたねえ。お盆に使う味噌を「盆味噌(ぼんみそ)」と言いました。味噌を搗くには早い時期なので、1升だけ作りました。これで仏様の味噌汁を作ったのです。

【丑様(うしさま)の餅】
  秋の初丑(はつうし)の日は、ムカエの農家では、稲束12杷(わ)を両ソガリ棒に6杷ずつ振り分けて、担いで家に持って帰っていました。そのとき「丑様の餅搗いたけん」と言い、私の家にも持ってきてくれました。小さな餡入り餅でした。戦後もしばらくはありましたが、今ではもうなくなりました。

【社日】
  お汐井は、秋の社日に筥崎に参って、そこで1年分の汐井を取って来ました。そのとき、汐井テボもいっしょに買った。だから、うちで使っているテボは、博多のものと同じもの。竹の取っ手はついてないもので、紐でテボを吊るものでした。春の社日に行くことはありませんでした。竹の取っ手が付いているのは、花テボといいました。汐井テボより大きなもので、土筆(つくし)摘みなどに使いました。怡土村のオイサンがイノウテ(担って)売りに来てました。

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