平成16年2月10日(火)~4月11日(日)
人生儀礼
【婚礼】
近所にお呼ばれすることを「お茶飲み」と言いました。「オチャノオツカイ」とも言っていましたねえ。今でもお嫁さんが来ると、「近所の見知りじゃ」と言ってお茶がわくことがあります。これは「つき合い」とも言い、家取りの嫁が来たときに行われています。また、上町から嫁に行く時にもお茶飲みはあります。「見立て」と言い、近所の女性が呼ばれる。昔はみな家でしていたが、今は料理屋を借りているようです。
祝儀が終わって、嫁と姑さんがツンノーテ(連れだって)歩きよった。ヨメゴザルキと言いました。嫁の場合は、タオル1本と小さな袋に入ったお茶を「茶行李」に入れて、近所に配って挨拶しよった。婿養子の場合には、タオルではなく、白扇1本だった。上町では、あまり袱紗は掛けませんでした。茶行李は、嫁御歩きのあと、お呼ばれをしたときには必ず持って行くものでした。ご馳走が残ったら、この茶行李に紙を敷いて、食べ残しを持って帰るのに使いました。お茶のみでも使いました。
挨拶の返礼には鯨の髭を3方に載せて「熨斗あげます」と言って出した。熨斗には、箱ふぐの剥製の家もあった。あるとき、今津の浜崎の主人の実家に行ったとき、剥製ではなくて生のふぐが熨斗として出されたときにはびっくりした。ふだんの挨拶のときは、何もなければ、イリコを皿に載せて熨斗の代わりにした。
【お宮参り】子供が生まれて男だったら30日、女だったら31日たったらお宮参りをしました。近頃は、もっぱら日曜日になっているようですが、私たちの若いときはそうでした。まず上町の天満宮に参って、松原にある氏神の二宮神社に行きました。赤ちゃんには、お宮参り着物を着せて行きました。お宮から帰りには、お祝いをもらった家を1軒1軒挨拶して回りました。各家では赤ちゃんの着物の紐に紐銭を結んでお祝いしてくれました。お宮参り着物は嫁の里から贈られて来たものでした。
上町では、あまり袱紗は使いませんでしたが、初孫が生まれたときの「饅頭配り」では使いました。お七夜に重箱に饅頭を入れて、袱紗を掛けて近所に配りました。
【誕生】
初誕生には、1升の餅を搗いて、一重ねの白餅をつくりました。これを鮨を入れるユリに入れて、子供に踏ませます。そのとき年配の女性が子供を抱えて、餅の上でなんか言った、「88までトントコトン」などという感じだった。親戚の父の姉が采配を振ったので、自分は何もしなかった。子供の足には草鞋を履かせた。草鞋は父が編んだ。父は博多山笠のときに使う草鞋なども編んでいたので、上手だった。
また、餅を唐草の風呂敷に包んで、子供の背中にからわせて、転ばした。これは「あんまり、はよう歩いたら、タカサルキ(遊び歩く)する」といって転ばしたのです。
また、モノ選びもしました。道具を7つそろえて、子供に這わせて取らせた。子供が手に取ったもので、将来の仕事が何になるかを占った。準備する道具には、蔵の鍵、そろばんなどがあった。取ったものに関する仕事が子供に向いているとみんなで言い合った。
子どもが初めて1人前の膳につく行事はオゼンズワリと言いました。ポッポオゼンという白木で松竹梅の泥絵の足つき膳に小さな椀を載せたものを使いました。このごろは聞かなくなりました。
【厄祝い】
41・2歳の厄祝いに、松原では、ニワカ芝居があっていました。松原公会堂の横に舞台がかかったのです。「厄祝いのニワカがあるげな」と言って見に行ったものです。ハナ(ご祝儀)を必ず持って行ったものです。リョーワラ(漁師村のこと)の今津の浜崎では、操り人形が来ていました。
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松本さんが語る年中行事や人生儀礼の話には、博多へのまなざしがあります。初節供で飾る破魔弓などは、博多のものと同じです。また、餅踏み、物選び、オゼンズワリなども同様の行事が博多で行われています。また、「丑の餅」の話が出てきますが、これは背後に農村を抱える博多の風物詩でした。今宿が博多同様に町であるということの証でもあります。それでは、松本さんが博多へ行くことがあったのでしょうか。
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【ハカタイキ】
兄や姉たちが博多にいるものだから、普段から博多には出掛けました。大乗寺前町の姉さんの家にはよく行きました。義理の兄が櫛田神社の神職だったので、いつも家には姉だけで、気楽だったからです。義理の兄さんは「お宮の兄さん」と呼んでいました。奥小路の姉からは、いつも大乗寺前町の家ばかり行ってからと言われたりしました。こちらは家業が忙しく遠慮しました。
15日の博多の追い山のときは、座敷から山笠を見ていました。山見に出掛けるのは、追い山だけでした。
親戚つき合いするものの、博多の義理の兄たちを「鬼すべ」などの接待で上町に呼ぶことはあまりありませんでした。それは、「博多の人をよんだっちゃ、田舎のものは口に合わない」からです。
ハカタイキという言葉は、上町にもありましたよ。誰かからどこに行くのか問われたら「ハカタイキしよります」と答えた。これは特別のことではなく、用のあって博多に行くときに使っていましたね。着ていく着物はウールでした。その頃ウールの着物が流行っていましたからね。
着物には、よそ行き、チョッチョト着、普段着に分かれていました。ハカタイキのときは、チョッチョト着を身につけました。これは、普段着ではないが、よそ行きほど上等ではない着物を指しました。ちょうど普段着とよそ行きの中間でした。よそ行きは、祝事や不祝儀などで着ました。
あるとき「お宮の兄さん」が、私の着ているチョッチョト着を見て、「着物を持ってないんだろう」ということで、姉に「着物を買うてきてやれ」と言い、新しい着物を買ってくれました。それはとても嬉しかったですね。
【米替え】
戦時中、博多の人が上町に着物を持ってきて、「米と替えてくれ」ということが、このあたりでは多かったですね。そうして替えた着物をコメガエと言いましたよ。戦後は、物資統制のなか、上町にはヤミガイの人たちが博多からよく来ていましたね。
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ハカタイキという言葉は「博多に行く」という行為と「博多に行くときに着る着物」の両方を指します。玄界灘周辺では、着物は晴れ着ではない上等の着物を指しますが、今宿ではチョッチョト着と呼んで、最上級ではないものだったと言います。この認識こそ、博多が身近であった証左となるものです。