平成16年2月10日(火)~4月11日(日)
次は権藤さんの番です。権藤さんの生家は、西松原で造り酒屋を営んでいました。その語りを聞いてみましょう。
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年中行事
【年越し】
12月29日に餅搗きをしていました。よそでは、この日を「苦の餅」といって避けるのでしょうが、うちはこの日が手順がよかったのです。
最初のひと臼は、4、5人がかりで、縦杵だけで搗きました。これで「お鏡」をとりました。ふた臼目から、横杵で普通に搗きました。最後の臼で、「塩餅」を作りました。これは中型の丸餅に塩餡をまぶしたものでした。これを重箱に入れて「壽」と記された小さな袱紗をかけて、近所2~3軒に配っていました。
【正月】
7日の朝は七草でした。オトコシが七草を摘んできて、まな板の上ですりこぎ・杓文字で叩きました。このとき刃物はいけないと言われていました。
我が家では、7日夜に豆まきをしました。よそでは2月ですね。この日、〆縄をおろして焼きました。また、お鏡をおろして小さく包丁で切って火鉢で焼きました。このお鏡を割ったものを「鬼の骨」と呼んでいました。父が家中の電灯を消して、「福は内、福は内、鬼は外」といいながら豆を撒いて回りました。オトコシたちが豆を拾うのですが、そのときに、畳を叩いたり、大きな音をさせたりして、わざと暴れて拾う仕来りでした。家中の部屋の豆まきが終わると、電灯を付けて、「鬼の骨」を甘く炊いた黒豆に付けて食べました。
【小正月】
4日の午前中にモグラ打ちをしました。くるくると先が廻るブリコのような道具で、オトコシたちが家の中庭を打って廻りました。造り酒屋でしたので、仕込み樽を干すために中庭は広かったのです。
25日に家の横に上町の鬼じゃが来ていました。それは松原の浜でお汐井を取るからいつも見ていました。「鬼じゃが来た」と言って妹たちと隠れるようにして見ていました。正月には、上ノ原から獅子舞も来ていました。昭和20年のころの話です。
【甑倒し】
うちは作り酒屋でしたので、オトコシ・オナゴシを雇っていました。オトコシには、樽取り、麹屋、杜氏ドン、桶屋さんの別がありました。1月に芥屋から杜氏ドンを雇いました。オナゴシは今津・北崎から雇いました。オトコシたちは、酒の仕込みのときは、夜通し起きていました。仕込む米を研ぐとき、半切りの桶に水を入れて足で踏んで研いでいました。このときに、オトコシたちは歌を歌いながら働いていました。オナゴシがそばを通ると、その人のことを即興で歌い込んで楽しくやっていました。朝食後、彼らが、このお米を蒸したものを手でちょっと取って、手で揉んで丸く延ばした「手垢餅」というのを作ってくれました。
2月のはじめに新酒ができると、蔵に茣蓙を敷き周りに幕を張って、お祝いをしました。これを「甑倒し」(コシキダオシ)と言っていました。これが終わると芥屋杜氏やオトコシたちは、里に帰りました。しかし、樽取りだけは残りました。樽取りは商家でいう丁稚でした。
【節供】
4月3日が雛祭り、この日はお雛様を飾りました。8月7日が7夕で県道の向こうまで朝露を取りに行って書き物をしていました。この頃は月遅れでやっていました。
【夏の行事】
二宮神社では7月29日がお祭りでした「輪越し」といいました。そのころ松原には山笠はありませんでした。各家では、軒先に蛇の目傘を立ててそれに色紙を切ったものを下げて「花傘」を飾りました。できあがると通りがどこも花傘で綺麗で、賑やかでした。「あっちのとより、こっちがいいね」と言いながら見て回りました。この花傘も、車の通りが多くなって、障害になるということでやめてしまいました。
【月毎の行事】
毎月1日と15日には、小豆ご飯を炊きました。このとき、お釜についた最後のお焦げに湯を入れて必ず飲まないといけない仕来りでした。これを「オユ」といいました。毎月25日は、「焼き味噌」でした。これは、言い伝えでは菅原道真が九州に流されてきたとき、地元の農家が取る物もとりあえず出した食べ物が「焼き味噌」だったということです。そのため我が家では、必ずこの日に「焼き味噌」を食べる仕来りでした。氏神は天神様なのです。