平成16年2月10日(火)~4月11日(日)
人生儀礼
【熨斗出し】
近所に結婚式があると、その家に呼ばれて「熨斗出し」をしました。それは、娘の勤める役でした。3方に紙熨斗を載せたものを使いました。いくつかの家に呼ばれたのですが、箱フグを熨斗として出すところがあって驚いた記憶があります。また町内にお嫁さんが来て挨拶に廻ってくるときも、熨斗を出しました。これも紙熨斗でした。熨斗を出して土間で挨拶をしました。
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造り酒屋という家業からちょっと変わった行事もあったようです。特に、豆まきを7日にするのは興味深いものです。このような権藤さんの記憶にある松原の生活を見ても、農村ではない町の仕来りということがわかります。「塩餅」というのがありましたが、これは博多では、「つき上げ餅」といい、最後の臼でつくるものです。塩餡をまぶすのが博多の特徴とされています。また「男たちが甘うならんごと塩味にするとたい」といういい方もあります。ここにも今宿の博多へのまなざしが感じられます。ところで、権藤さんのハカタイキはどうだったのでしょうか。
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【ハカタイキ】
子どもの頃、よく博多の玉屋に行きました。軌道に乗って行き、姪浜で電車に乗り換えて博多へ向かいました。また、1年に1回、筥崎宮の本殿の裏にあるオトゴサマという子どもの神様に詣でました。子どもが生まれ、1歳くらいになるまで毎年でした。このときはオナゴシの子守さんといっしょでした。これをハカタイキと言いました。このとき博多駅の裏にある寿軒から駅弁を買って行きました。これをそこで食べました。駅弁を食べるのは楽しみでした。ハカタイキすると、土居町にあったヤスモト写真館で写真を撮りました。これも楽しみでした。しかし、博多のお祭りには、行くことはありませんでした。それは家が商家で忙しかったからです。
また、お花の先生を福岡から呼んできたことがありました。その先生はお作法の先生でもありましたので、近所の子どもを呼んでお作法を教えていました。
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松本さんと権藤さん、お2人の「昔語り」を聞いていくと、今宿が「町」であった頃の、ちょっと昔の姿が見えてくるように思えます。
まなざしの行方
―小博多としての今宿―
今宿の祭りと暮らしの語りを聞いてきました。ほとんどが「博多」へのまなざしのなかで語られていました。今宿は、成立当初から町としての機能を持っていましたが、あまり糸島側(怡土郡)との繋がりがないように感じられます。それは、周辺の農・漁村に対する今宿の吸引力を示していることにほかなりません。つまり、街道というルートに乗って往来した、"都"の情報や物資が、そこでの民俗文化の形成に影響を与えてきたということになります。
博多もまわりに漁村・農村を持ち、そことの交流の中から、民俗文化を形成し発信してきました。周辺では、博多の文化を模倣することをハカタウツシという言葉で言い習わしてきましたが、今宿の民俗もこの範疇で考えてもいいのかもしれません。そうです、今宿は「小博多」だったのです。
(福間裕爾)